私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(4)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(3)のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語/[後編]永遠の物語」(2012年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(2013年、シャフト)


(2)[新編](つづき)
(イ)魔法少女が魔女になるのは、(広い意味で)絶望したからです。
そして、絶望は希望の裏返しです。
ということは、遡って、(a)ほむらは自らの希望を取り巻くこの特異な状況を、絶望的なものだと解釈したということになります。
しかも、そのときに生み出されたほむらの絶望は、その後、彼女が(b)(結界の中で)完全な魔女になったこと、(c)(結界から出た後、)「悪魔」になったことにも、強く関係しています。

そこで、以下では、ほむらは何に絶望して魔女になったのかという問いを、
(a)(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのか(狭義)
(b)(結界世界の)ほむらは、なぜ救済を拒絶して完全な魔女になったのか(広義)
(c)(現実世界の)ほむらは、なぜ救済を拒絶して「悪魔」になったのか(最広義)
の三つに分けて検討します。


(a)(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのか
ほむらがこの特異な状況を解釈するうえでもっとも留意しなければならないのは、これが「まどかの望んだ結末」だということです。
すなわち、誰にだまされたのでも強いられたのでもなく、すべての事情を斟酌したうえでまどかがした決断だということです(ここにおいて、「キュゥべえにだまされる前の馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな」と願った時のまどかの意志さえも、乗り越えられています)。
そのうえで、「信じて。ぜったいに今日までのほむらちゃんを無駄にしたりしないから」と言われたからには、まどかの決断を尊重せざるを得ません。
しかし、一方で「概念にな」るというまどかの決断を尊重すると、他方で「まどかを守りたい」、「まどかにモテたい」というほむらの希望が叶いません。
ここに、いわゆる認知的不協和*1が生じています。

そこで、この不協和状態を解消するために、まどかが「概念にな」ったことの価値を高めながら、それに合わせて「まどかを守る」こと、「まどかにモテる」ことの意味を弱めることが考えられます。
すると、たしかに、まどかが「概念にな」ったことについては、「死ぬなんて生易しいものじゃない」(マミ)、「死ぬよりも、もっとひどい」(ほむら)という見方もあります。
しかし、無駄に死ぬよりはましな気がします。
まして、魔女になるよりははるかにいいでしょう。
なぜなら、まどかの意志に照らせば、死ぬことや魔女になることは不本意です。
これに対し、「概念にな」ることは、その結末に齟齬がないからです。
だとすれば、ほむらは「まどか(の意志)を守」ったと考えることもできます。
だからこそ、改変後の世界でそれを「覚えているのは私だけ」、つまり、まどかにとってほむらは特別な存在(「最高の友達」)になることができたのです。

むしろ、まどかの意(遺?)志を受け継ぎ、まどか「が守ろうとした」この世界で「戦い続ける」ことこそ、自分に与えられた崇高な使命である(苦難の意味転換)。
そして、いつか力尽きて「円環の理に導かれ」れば、「あの懐かしい笑顔と再び巡り会える」(来世での幸福)。
戦いの中で、いつもまどかが自分のそばで見守っていてくれるのを感じる。
そう信じきることができれば、いわゆる苦難の神義論*2が完成します。

なお、魔女になることと死ぬこととを比べた場合は、魔女になるくらいなら死んだほうがましだというのが、魔法少女の一般的な考えだと思われます。
たとえば、「私、魔女にはなりたくない(だから、殺してほしい)」と願ったまどかと、それを聞き入れたほむらがいます。
また、「ソウルジェムが魔女を生むなら、みんな死ぬしかない」というマミの考えも、具体的なあてはめはともかく価値判断としては同じです。


しかし、結局、ほむらはまどかによって強いられた解釈の転換を信じきることができませんでした。
そのきっかけは、「まどかを守」れなかった罪悪感だったかもしれません。
しかし、そうだとしても、「まどかにモテ」なかった孤独感の方が決定的だったと思われます。
「寂しいのに、悲しいのに、この気持ちを誰にも分かってもらえない」
そもそも、ほむらには、一人ぼっちになるくらいなら「死んだ方がいい」という価値観があります。
だから、まどかの真意はどうあれ、口先だけで「最高の友達」と持ち上げられたくらいでは、とうてい納得できないのです。

たしかに、「円環の理に導かれ」れば、まどかの「あの懐かしい笑顔と再び巡り会うこと」ができます。
しかし、ほむらが求めているのは、あくまで現世利益です。
すなわち、人間としてのまどかと普通の中学生らしい日常を過ごしたかったのです。
「いくつもの時間で」「何度も泣いて、傷だらけになりながら、それでも」まどかとの日常「のためにがんばっ」ってきたのに、来世(任意の並行世界)まがいのあの世(メタ並行世界)に召されてしまっては、元も子もありません。
「そんな幸福は、求めてない」*3

とはいえ、いまさら、「概念にな」ったまどかを元に戻せるわけではありません。
というより、そもそも、まどかの決断を貶める勇気はありません。
もはや、ほむらは、積極的には生きることも、死ぬこともできないのです。
できることといえば、理想のまどかとのリア充な日常を夢想して、自分を慰めるくらいです。
しかし、これは、「あの懐かしい笑顔と再び巡り会うことを夢見」るのとは根本的に違います。
なぜなら、ほむらが見ているのは、いつか現実に叶う可能性のある夢ではありません。
もはや現実には叶う可能性のない夢だからです。
これは、何を意味するのでしょうか。

現実に叶う可能性があるなら、それは希望と呼んでも差し支えないでしょう。
しかし、もはや現実に叶う可能性のない夢を見ることは、程度の差はあれ、現実に絶望しているということです。
つまり、ここにいたって、ほむらは、(時間を遡行することによって現実逃避するのではなく、)夢を見ることによって現実逃避していたということになります。
そして、だましだましに、しかし着実に絶望を育みつづけ、ついにソウルジェムを「限界まで濁りき」らせてしまいました。
そこをインキュベーターによって、現実世界の円環の理から物理的に隔離されたため、ほむらは(不完全な)魔女として結界世界を作るに至ったのだと思われます(現実逃避説)*4

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5)につづく

*1:レオン・フェスティンガーによる概念です。

*2:マックス・ウェーバーによる概念です。

*3:ただし、ほむらは、この台詞を「まどかを守る」文脈で使っています。

*4:これが、(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのかという問いに対する、一つの答えです。ひとまず、この解釈を前提して、問い(b)、(c)それぞれに対する答えを考えます。その後、問い(a)に対する別の答えを、異説として補足しようと考えています。これは要するに、現実逃避説では説明が不十分な点があるということです。