原因において自由な行為説(仮)

以下の文章は、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(宮本幸裕監督、新房昭之総監督、シャフト制作、2013年)のネタバレを含みます。


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の解釈論を書き終えることができないまま、8年あまり経ってしまいました。
書き終えることができなかった原因は、自説を書く前提としてまず他説を書く予定だったところ、自分の採っていない他説*1を説得的に書くことができなかったからです。

できればそのうち続きを書きたいと思っていますが、とりあえず自説の結論を簡単に書いておきます。
ほむらが悪魔になったのはなぜかというと、最初からその予定だったからです。なぜ最初からその予定だったのかというと、ほむらが求めていたのは現世利益だったからです。では、なぜ今まで実行しなかったのかというと、まどかの言葉に縛られていたからです。そこで、まどかの新たな言質を得るために、キュゥべえの介入を奇貨として結界世界に入り、その目的を果たしたということです。

なお、結界世界に入る前のほむらと結界世界から出た後のほむらとは同一人格です(外ほむら)が、結界世界内のほむら(魔女のようになった後のほむらも含めて、内ほむら)はそれらとは別の人格であると思われます(結界が消滅すると同時に内ほむらの人格は実は消滅しており、外ほむらとは人格が連続していないという意味です。ほむらの悪魔化が唐突に見えるのはそのためと解することになります。また、まどかの言質を得た後の結界世界内での出来事は、外ほむらにとってはそれほど重要ではなかった可能性があります)。

この解釈は、ほむらが別人格の自分(?)をあたかも道具として利用しているところから、道具理論、または原因において自由な行為説などとひとまず仮称しておきます*2

*1:ここでいう他説とは、ほむらの悪魔化がキルケゴール的な段階的絶望によるものという説です。この説はわりと一般的な解釈ではないかと思います。

*2:本来、原因において自由な行為 (actio libera in causa) とは、刑法学上の概念で、狭義には、「実行行為が、行為者自身の責任能力を欠いた状態、すなわち、心神喪失状態を利用して行われたとみられる場合」のことです(大塚仁『刑法概説(総論)』有斐閣、第3版増補版、2005年、159頁)。その可罰生を肯定する理論構成にはいくつか考えられますが、本文の「道具として利用」という考え方は間接正犯類似構成といわれるものです(もっとも、ほむらは責任能力をなくしているというより、記憶をなくしているだけですが)。