私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(7)(完)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(6) - 流れるアニメとよどむ目のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(Magica Quartet原作、新房昭之総監督、宮本幸裕監督、シャフト制作、2013年)



(2)[新編](イ)(つづき) 
(d) ほむらの絶望が極まったのはいつか
上記 (a) 現実逃避説、(b) 弱気の絶望説、(c) 傲慢の絶望説はそれぞれ、キルケゴールのいわゆる(a) 無知の絶望(無意識の絶望)、(b) 弱気の絶望、(c) 傲慢の絶望(悪魔の絶望)の段階*1にだいたい対応します。
(a) 現実逃避説、(b) 弱気の絶望説、(c) 傲慢の絶望説では、結界を形成する前の段階(苦難の神義論)と結界を形成した後の段階(ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット)とが、無知の絶望のグラデーションとして滑らかに連続すると解されているように見えます。また、結界が崩壊する前の段階と結界が崩壊した後の段階とも、傲慢の絶望のグラデーションとして滑らかに連続すると解されているように見えます*2。そこで、この一連の解釈を連続説と称することにします。

しかし、円環の理(の一部)を奪う際、ほむらは「この時を待ってた」、「やっと捕まえた」と言っています。これらの言葉の内容が正しいならば(おそらく正しいでしょう)、新たな問題が生じます。
すなわち、「待ってた」、「やっと」という語は、期限が到来していない、または、条件が成就していない状態が時間的に継続していたことを含意しています。では、いつからその状態が継続していたのか、すなわち、ほむらはいつから傲慢の絶望段階にあり、円環の理を奪うつもりだったのかが問題となります。

奪取行為時から遡れば、候補としては、
 現実世界で目が覚めた時
 ↑
 インキュベーターの干渉がなくなった時
 ↑
 魔女になった時
 ↑
 現実世界と結界世界との関係を知らされた時
 ↑
 結界世界内のまどかの気持ちを聞いた時
 ↑
 犯人探しを始めた時
 ↑
 インキュベーターの介入によって結界を形成した時
 ↑
 円環の理の秘密をインキュベーターに話した時
などを挙げることができます。
「待ってた」と言うからには、少なくとも、現実世界のほむらが力尽きかけており、もうすぐ円環の理が迎えに来るという状況を予見している必要があります。したがって、結界世界内のまどかの気持ちを聞いた時、犯人探しを始めた時は候補から外れます。
他方、「ずっと」と言うからには、現実世界で目が覚めた時、インキュベーターの干渉がなくなった時、魔女になった時、現実世界と結界世界との関係を知らされた時は、状況の予見はありますが、時間的な継続という点からは短すぎます。したがって、これらも候補から外れます。
そこで、残るのは、インキュベーターの介入によって結界を形成した時、円環の理の秘密をインキュベーターに話した時です。前者では、過失(結果の予見可能性あり)によってインキュベーターの介入を招いたものの、それを奇貨として故意(結果の予見+意欲あり)に結界を形成したことになります。これに対し、後者では、インキュベーターの介入も結界の形成も故意によるものであるということになります。

どちらにしても、結界世界内のほむらが記憶を操作される前のことです。ところで、結界を形成する前のほむらと結界世界内のほむらとは記憶が連続していない*3ということは、連続説でも認めざるを得ないはずです。そして、記憶の連続性の有無は、絶望に関する意識の有無・程度に影響を及ぼします。とくにほむらの場合、絶望に関する意識の有無・程度においても連続性が絶たれていると解するしかないように思えます。ところが、連続説では、無知(無意識)という概念を介して、結界形成前のほむらと結界世界内のほむらとの関係が曖昧になっています。そこで、両者の関係を明確にすると、円環の理の奪取を企てたほむらが記憶のない状態の自己をまどかの言質を取るための道具として利用したと解するのが妥当だと思います。
責任能力のない状態の自己を道具として利用する場合を原因において自由な行為 (actio libera in causa) と称します*4。ほむらの場合は責任能力ではなく記憶ですが、記憶を操作されている状態はこれとほとんど同等と見ることができます*5*6。そこで、この解釈を原因において自由な行為説と称することにします。

他方、結界が崩壊する前の段階と結界が崩壊した後の段階との関係はどう解するべきでしょうか。
原因において自由な行為説でも、(b) 最終的に傲慢の絶望に至った結界世界内のほむらと (c) 結界形成前にすでに傲慢の絶望に至っていた結界から出た後のほむらとは記憶においても絶望においても連続していると解することもできます((b) の記憶を体験としてではなく知識として引き継いでいるという解釈も可能でしょう)。
しかし、(b) ほむらと (c) ほむらとは連続しておらず、連続しているのは (a) 現実世界で結界を形成する前のほむらと (c) ほむらであると解することもできます。この場合、仮に (b) 結界世界内のほむらが傲慢の絶望に至っていたとしても、(a)=(c) ほむらからすれば偶然にすぎないということになります(私はこの解釈に傾いています)。
この解釈によれば、この時を「待ってた」のも「やっと」捕まえたのも、(a)=(c) ほむらであるということになります((b) ほむらは消滅?)。すると、(c) 目覚めた後のほむらの視点移動(さやか、なぎさ確認→マミ、杏子確認→まどか確認)は、状況の即時把握のためであったということになります*7。

3. まとめ
(1)『始まりの物語』、『永遠の物語』(≒TVシリーズ)
「まどかを守る私になりたい」というほむらの願いが叶うためには、まどかを死なせない、魔女にならせないことが必須です。たしかにまどかは死ぬことも魔女になることもありませんでした。しかし、あの結末です。そこで、「まどかを守」ったといえるのかがほむらにとって問題となります。
しかし、ほかならぬ「まどかの望んだ結末」である以上、ほむらに解釈の余地はありません。そこで、ほむらは「まどかを守る」の意味について解釈の転換を余儀なくされます。すなわち、「救いようのない世界だけれど」、「あの子が守ろうとした場所」、「だから私は戦い続ける」、それが自分の使命。
これはまどかによる改変後の世界、まどか、自分の置かれている不条理に「説明」を与える苦難の神義論です。

(2)『叛逆の物語』
その先に「まどかを守る」だけでなくそのような「私になりたい」という願いの変奏が描かれたのが『叛逆の物語』ではないかと思われます。
ほむらは、苦難の神義論による解釈の転換に失敗し、認知的不協和に陥ります。ほむらにとって円環の理は物理法則としてよりも道徳法則として問題なのです。
そこで、キュゥべえの介入を契機として、記憶のない自己を道具として利用し、まどかの言質を取ります。そして、まどかの言質によって円環の理に対してやっと反駁(叛逆)することができたということになります。

了

*1:キルケゴール「死にいたる病」(松浪信三郎訳)『死にいたる病/現代の批判』松浪信三郎・飯島宗亮訳、白水社、2008年(初出1990年)、 18-20頁。

*2:弱気の絶望はさらに、(b-1) この世またはこの世の何ものかについての絶望、(b-2) 永遠的なものもしくは自己自身についての絶望に分けられています(キルケゴール前掲79, 95頁)。これを細かくあてはめれば、だいたい、(a) ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット、(b-1) 犯人探し、(b-2) 魔女、(c) 悪魔ということになるでしょうか。

*3:記憶の連続性が絶たれているだけではありません。この時のほむらの体は結界の外にあります。だとすると、結果内のほむらの体は、似てはいるが別物であり、身体の連続性もないということになります(そもそも身体ではない?)。なお、結界に誘導・捕獲された他の「犠牲者」については、記憶は操作されていますが、体は結界内にあり、身体の連続性は保たれています。

*4:大塚仁『刑法概説(総論)』有斐閣、第3版増補版、2005年、159頁、井田良『講義刑法学・総論』有斐閣、2018年、第2版、493頁以下。本文の「道具として利用」という見解は、道具理論とか間接正犯類似説とか構成要件モデルとか称されるものです。原因において自由な行為は、原因行為と結果行為との関係について、結果行為を原因行為に帰責する理論的工夫です。ほむらの場合、原因行為に対する結果行為は、まどかの言質を取ることです。これは刑法上の犯罪というわけではなく、円環の理を道徳法則とした場合における道徳上の罪ということになります。

*5:ただし、結果的には同じでも、理屈はやや異なるかもしれません。すなわち、記憶をその都度操作されているのであれば、それは催眠状態(心神喪失の一例)と同じです。しかし、そうではなく、記憶操作後はその都度状況のほうを調整することによって真相に気づかせないようにしているように見えます。

*6:インキュベーターは記憶を操作されているわけではありません。また、自ら規範に直面しています(やってはいけないと分かっているのに、あえてやっている)。したがって、インキュベーターの行為に対するほむらの助力は、片面的幇助になると思います。なお、インキュベーターは円環の理(初期条件→結果の形式で言い直せば、「魔法少女を浄化し、消滅させる力」による現象が存在すること)については認識しているので、その検証方法についてもほむらのヒントなしで到達できていた可能性はあります。ほむらは円環の理の正体を特定する「手間を省い」ただけとも。

*7:ところで、悪魔ほむらによる改変後の見滝原にほむらが存在するのは、創造主が世界内に顕現している状態なのでしょうか。あるいは、このほむらも偽者なのでしょうか。あるいは、汎神論ならぬ汎魔論でしょうか。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(6)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5)-Ⅱ - 流れるアニメとよどむ目のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(Magica Quartet原作、新房昭之総監督、宮本幸裕監督、シャフト制作、2013年)


(2) [新編](イ)(つづき)
(c)(現実世界の)ほむらは、なぜ救済を拒絶して「悪魔」になったのか
インキュベーターの干渉(観賞? 鑑賞?)を受けるおそれがなくなり、かつ、ソウルジェムが「すでに限界まで濁りきってい」る以上、もはやほむらは円環の理による救済を受け入れざるを得なくなったように見えます。にもかかわらず、なぜ救済を拒んだのでしょうか。というより、拒むことができたのでしょうか。そして、なぜ消極的に救済を拒むだけでなく、積極的に「円環の理の一部をもぎ取」ることができたのでしょうか。

能力的には、結界を形成する前の状態に戻ったのであれば、そもそもほむらは結界を形成する前から「円環の理の一部をもぎ取」ることができたことになります。
他方、もし、結界を形成する前と同じ状態ではないのであれば、その能力は結界の形成・維持・崩壊の過程において獲得したものであるということになります。もしかしたら、魔女としての能力の発露なのかもしれません。

しかし、能力的な可能性は第一の問題ではありません。なぜなら、ほむらにとって円環の理は、そのような自然法則(物理法則)としてよりも、道徳法則(道徳規範)として問題になっていた(「できるかどうか」ではなく、できるとしても「してよいかどうか」)からです。すなわち、ほむらにとって、まどかの意志(遺志)による決断は従うべき道徳的な行為規範なのです。ところが、これに従うと、ふつうのイメージでの「まどかを守りたい」、「まどかにモテたい」という自分の希望が叶いません。この認知的不協和がほむらの絶望の始まりでした((イ)(a)参照)。

ところで、結界を形成する前は、「まどかの望んだ結末」に対して(少なくとも、「まどかにモテる」という文脈だけで)反駁することさえ不可能でした。ところが、ほむらはいまや、「まどかの望んだ結末」が(「まどかを守る」という文脈でも)道徳的に間違っている(かもしれない、いや、ちがいない)という証拠を手に入れています。
それは、「誰とだってお別れなんてしたくない」という、結界世界内のまどかの言葉です。これは、まどかの「本当の気持ち」についての供述証拠です。

では、どちらのまどかの意思が優先されるべきでしょうか。ここでは、「本当のまどか」はどちらか、また、まどかの「本当の気持ち」はどちらかという考慮要素が現れています。
一方で、さやかは円環の理としてのまどかを「本当のまどか」と言っています。他方で、ほむらは結界世界内のまどかを「本当のまどか」と言っています。
また、現実世界のまどかの決断は、誰にだまされたのでも強いられたのでもなく、すべての事情を斟酌したうえでのものだったはずです((イ)(a)参照)。しかし、結界世界内のまどかの言葉は、あくまで夢の話として先入見を排除したうえで引き出したまどかの「本当の気持ち」とも考えられます。そうであるとすれば、やはり現実世界のまどかの決断は、瑕疵ある意志表示(少なくとも動機の錯誤)だったのではないでしょうか。
いや、夢の話として供述を引き出すのは誘導的(ミスリーディング)です。また、「どれほどつらいことだと分かっていても、それを選択できてしまう勇気がある」のであれば、やはりまどかの決断に瑕疵はなかったと考えられます。
いや、仮に瑕疵がなかったとしても、まどかのためにならないのだというパターナリスティックな観点からの反駁もあり得ます。あたかも、法定代理人が未成年者の意思表示を無条件で取り消すことができるように*1。
もっとも、ほむらにとっては、仮に牽強付会であったとしても、現実世界のまどかの決断を反駁する口実になりさえすればよいので、結界世界内のまどかが「本当のまどか」でなくてもかまわないし、結界世界内のまどかの言葉が「本当の気持ち」でなくてもかまわないとも考えられます。

ともかく、ほむらは、結界世界内の「本当のまどか」の「本当の気持ち」を根拠として、円環の理に対し、(「まどかにモテたい」という希望にも反している*2だけでなく、)「まどかを守る」という希望に反している(私だけじゃなくまどかも本当はいやだった)と道徳的に反駁することができるようになったからこそ、物理的にも叛逆することができるようになったのです*3*4。

したがって、ほむらが「悪魔」になったのは、道徳的な束縛(「してはいけない」)が外れて、ためらう必要がなくなったからということになります。これはキルケゴールのいわゆる傲慢の絶望(悪魔の絶望)です*5*6(傲慢の絶望説)。

つづく

*1:というか、まどかたちはそもそも未成年者です。これは、分かっているようで意外と見落とされがちな点ではないでしょうか。

*2:「概念になり果て」たわりにはけっこう人格が残っており、さやかやなぎさや他の女たちとイチャイチャしているなんて、私がまどかにモテないのはどう考えてもまどかが悪い! という感じです。円環の「理」とはいうものの、理論(概念)というよりも、むしろ初期条件の一つと考えたほうがしっくりきます。

*3:さやかはほむらのソウルジェムの色を見て、まず欲望かと判断しています。これは、愛は欲望とは区別されるが一見欲望に似ているとも、欲望(とくに「まどかにモテたい」)が混在しているとも解釈できます。

*4:人間としてのまどか、円環の理としてのまどかをそれぞれ、「欲望」、「秩序」に割り振ることができるとすると、前者がザインとしてのまどか、後者がゾルレンとしてのまどかということになるでしょうか。

*5:もっとも、改変後の世界におけるほむらのまどかに対する接し方は、「まどかにモテたい」という観点からはかなり雑です。ひじょうに形式的、手続き的にも見えます。もはや取り繕う必要がなくなったからでしょうか。単に疲れているのかもしれません。賢者タイムで「まどかを守りたい」に比して、「まどかにモテたい」という希望が一時的に減退しているのかもしれません。エンドロール後に草むらの物音にハッとしたのはまどかが来たのかもしれないと一瞬期待したからでしょうから、「まどかにモテたい」という希望が完全になくなったわけではないと思います。しかし、いまや孤独をむしろ満喫しているようでもあります。 他方、他の魔法少女たちに対する態度(マミに対してはティーカップを壊す、杏子のリンゴを受け取らない、さやかに対しては正体を気づかせたうえで拒絶)は、関心を引こうとしているようにも、挑発しているようにも、あえて正体のヒントを与えたうえででもやっぱり訣別した(他人の助けはもう要らない)ようにも見えます。 まどかたちに自分のことを気づいてほしいけど気づいてほしくない? 結局ぼっちになってるのはやり方が下手だからという身も蓋もない理由に尽きる気もします。

*6:以下、キルケゴール「死にいたる病」から、いくつか引用します(キルケゴール「死にいたる病」『死にいたる病/現代の批判』松浪信三郎訳、白水社、2008年(初出1990年)によります)。「彼」に「ほむら」を代入して読むとよいと思います。 「意識が増してくれば増してくるほどそれだけ絶望の度も強くなり、ついに悪魔的なものにまで到達する」(112頁)。「そうなると、たとい天にいます神とすべての天使たちが彼に救いの手をさしのべようとも、断じて、彼はもはやそれを受けいれようとはしない。いまではもう手おくれなのだ」(113頁)。「高次のものもしくは最高のものによる救いの必要が問題になった場合、どのようなしかたでなされようと、その救いを無条件に受けいれなければならないとしたら、それは屈辱である。いっさいを可能ならしめる「救済者」の手中にあっては、自己は無にひとしいものとならなければならない」(112頁)。 「彼はただ傲慢にも彼自身であろうと欲するのではなく、むしろ反抗的に彼自身であろうと欲するのである。彼は自分の自己をこのように置いた者の力から自己をただ傲慢にもひきはなそうと欲するのではなく、むしろ反抗的にそれに迫っていこうと欲するのである」(115-116頁)。「彼は存在全体に向かって反抗し、存在全体を反駁しうる証拠を握っているつもりでいる。絶望者は自分がその証拠なのだと思っている」(116頁)。「永遠の慰めなどにはまったく耳をかそうと欲しない」(「欲しない」に傍点)。彼は、存在全体に対する抗議であろうと欲したからには、慰めはかえって自己の没落だと考えている」(116頁)。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5)-Ⅱ

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5) - 流れるアニメとよどむ目
のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(Magica Quartet原作、新房昭之総監督、宮本幸裕監督、シャフト制作、2013年)
・『〈物語〉シリーズ セカンドシーズン』第26話「ひたぎエンド其ノ陸」(西尾維新原作、新房昭之総監督、板村智幸原作、シャフト制作、2013年)



(2) [新編](イ)(つづき)
(b)(結界世界の)ほむらは、なぜ救済を拒んだのか(下)
ほむらが「救済を拒」んだのは、「まどかを守りたい」からだけではありません。以下のような心理も働いていたとのではないでしょうか。
すなわち、絶望した自分は「かっこよく」ない。これでは、「まどかにモテない」。でも、この「かっこよく」なさはもはや改善の余地がない。しかも、「かっこよく」ないところを見られた。とくにピュエラ・マギ・ホーリー・クインテットという形で絶望していることを知られてしまった。でも、記憶を操作することももうできない。こうなった以上、(マミと杏子による断罪を介した間接的な)自殺を選択することによって、「かっこよく」ない自分を消すしかない。

したがって、ほむらが「救済を拒」んだのは、「意気地なしだった」からということになります。これはキルケゴールのいわゆる弱気の絶望の最終段階です*1(弱気の絶望説)。

残された課題は、自分の最期をどれだけ悲劇的に飾ることができるかということだけです*2。

つづく

*1:「絶望者は自分がその内心を他人にうちあけたということについて絶望することがある。もし彼が沈黙をまもりつづけることができたなら、そのほうが、だれか一人でもそれをあずかり知っている人があるよりも、どれほどよかったか知れはしない。その場合にはやはり自殺が唯一の逃げ道である。さもなければ、それをあずかり知った人が死ななければならない」(キルケゴール「死にいたる病」(松浪信三郎訳)『死にいたる病/現代の批判』松浪信三郎・飯島宗亮訳、白水社、2008年(初出1990年)、103頁)。

*2:別の作品ですが、『〈物語〉シリーズ セカンドシーズン』第26話「ひたぎエンド其ノ陸」(西尾維新原作、新房昭之総監督、板村智幸原作、シャフト制作、2013年)において、貝木泥舟は蛇神になった千石撫子の「説得」に成功しています。状況的には同じところもあり違うところもあるのですが、比較すると面白いかもしれません。

遺伝子還元主義的運命論

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(矢立肇、富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2004年)、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(同、2024年)のネタバレを含みます。


1. はじめに
『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』では、戦争が主題となっています。そこで、以下では、作中人物の一人であるデュランダルが戦争という社会現象について提起した二つの問いを検討します*1。


2. デュランダルの戦争原因論*2
一つ目の問いは、作中において「なぜ戦争はこうまでなくならないのか」です。

戦争*3は、自然現象とは異なり、直接的には人間の行為によって引き起こされるものです。しかし、「戦争はいやだと、いつの時代も人は叫び続けてい」るとされています。すなわち、たいていの人間は戦争したくないということです。にもかかわらず、現に作中では戦争が起きています。

そこで、自分達ではない誰か一部の人間が戦争をしたいと思っているから戦争はなくならないのだと考えたくなります。
シンは、「いつの時代も身勝手で馬鹿な連中がいて……ブルーコスモスや大西洋連邦みたいに」と答えています。また、デュランダル自身は、「あれは敵だ」、「人類の歴史には、ずっとそう人々に叫び、つねに産業として戦争を考え、作ってきた者達がいるのだよ。自分達の利益のためにね」と答えています。
シンの答えは心理学主義、デュランダルの答えは陰謀論と呼ばれるものです。これら二つの答えは、戦争は人間の意図(たとえば憎悪、狂気などの心理、陰謀)の結果であると説明する点で共通しています*4*5。

しかし、心理学主義、陰謀論に対しては、一部の人間の意図がなぜたやすく実現してしまうのかという疑問があります。
たいていの人間が戦争を望んでいないのに戦争が起きるということは、少なくとも戦争に関するかぎりでは人間の意図と結果とがたいてい食い違うということです。すなわち、一部の人間の意図さえめったに実現しないということです。つまり、任意の戦争について、仮に陰謀が存在していたとしても、当該戦争が当該陰謀の結果である蓋然性はきわめて低いということになります。
にもかかわらず、一部の人間が例外であり得るのはなぜか、少なくともその機序(メカニズム)を説明する必要があります*6。


3. デュランダルの戦争根絶論*7
心理学主義、陰謀論を前提として、デュランダルが提起した二つ目の問いは、戦争を「もう二度と繰り返さない」ためにはどうすればよいのかです。

デュランダルは、戦争の原因である陰謀(ロゴス)と心理(「無知と欲望」)のうち、前者については「ようやくそれを滅ぼすことができた」とする一方で、後者についてはこれを克服するために、デスティニープランと称する一種のユートピア主義*8的制度を提唱します。

まとめれば、以下の通りです。
①「誰もが皆幸福に生きられる世界になれば、もう二度と戦争など起きはしない」*9。
 (a)「幸福に生き」るとは、「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」ことである*10。
 (b)「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」るとは、「資質のすべて、性格、知能、才能、また重篤な疾病原因の有無の情報」を知り、それにしたがって生きることである。
②この制度の妥当性は遺伝子工学によって保証される。

しかし、①は因果関係が不明です((a) および (b) は「幸福」の名目的再定義です)*11。また、仮に①を肯定するとしても、遺伝子という要素だけで各人の社会的役割を一義的に導き出すことは、事実上困難であるというだけでなく、原理上不可能です。なぜなら、適応すべき環境自体が一定ではなく、遺伝子以外のさまざまな社会的要因によって変化するからです*12*13*14。
また、②全世界を実験場とする全体的かつ急進的な計画であるため、「かならず反発を生」むのであれば、この制度の実効性を保証するのは究極的には暴力しかありません*15。やはり戦争が不可避となるのではないでしょうか*16。

したがって、デスティニープランは、少なくとも戦争根絶のための政策としては不適切であったと解されます*17*18。


4. まとめ
陰謀論の淵源は、古代ギリシャのホメロス的運命論にあるとされています*19。すなわち、ホメロスによれば、世界で起こるすべての出来事の原因は、オリンポスの神々の陰謀とされています。陰謀論では、「一部の人間」が「オリンポスの神々」に取って代わっているのです。
そのうえで、デスティニープランは、社会現象の遺伝子還元主義です。すなわち、遺伝子を初期条件として結果としての社会問題を解決する政策と解されます。そこでは、「遺伝子」が「オリンポスの神々」に取って代わっいるのです。
その結果、教条的という意味では運命論的です*20が、社会政策としては社会現象を適切に分析することができず場当たり的になってしまうのではないかと思われます。

*1:本稿は、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の鑑賞前に書いた「心理学主義的社会(観)」

https://truth-in-anime.hatenablog.com/entry/2024/01/24/192513

を鑑賞後に大幅に加除修正したものです。なお、心理学主義的社会云々については生煮えであるため削除し、デュランダルのとなえる戦争の原因とその対策(とくに後者)とに絞って書くことにしました。

*2:以下、鉤括弧内は一部を除いて「PHASE-19 見えない真実」から引用。

*3:「戦争」という語は多義的です。紛争解決手段としての武力行使を意味する場合もあれば、その結果としての戦争状態を意味する場合もあります。

*4:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』2上、小河原誠訳、岩波文庫、2023年、197頁以下。したがって、陰謀論は心理学主義の変種と解することができます。

*5:「PHASE-48 新世界へ」でも、デュランダルは「有史以来、人類の歴史から戦争のなくならぬわけ」は、「一つには間違いなくロゴスの存在」(陰謀)であるとする一方で、「我々自身の無知と欲望」(心理)であるとしています。

*6:陰謀論批判は、陰謀は存在したとしてもめったに成功しない(から陰謀論は一般的な説明としては適切でない)としているだけで、陰謀はいっさい存在し得ないとか陰謀はいっさい成功し得ないとか批判しているわけではありません。デュランダルによれば、現にこの戦争はロゴスという陰謀家によって仕組まれたものであり、およそすべての戦争がそうであるとされています。もしそれが本当であるとすれば、作中で陰謀が成功しやすい理由の一つは、おそらく社会関係の単純性ではないでしょうか。すなわち、特定の一個人(たとえばブルーコスモス盟主、ザフト最高評議会議長など)の意図が即座に結果として実現するような、効率的な(=短絡的な)制度、伝統、慣習が確立されており、その結果、この作品の社会(世界というより)は、一部の人間の意図に対してきわめて敏感に反応するのではないかと思われます(しかし、これはすでに心理学主義な見方ではなく、制度主義的な見方になっています。なお、心理学主義か制度主義かという論点とは別に、個人を超えたたとえば「人類」という集団に独自の意志を認めるかという論点もあります)。

*7:以下、一部を除いて、鉤括弧内は「PHASE-48 新世界へ」から引用。

*8:「PHASE-48 新世界へ」というサブタイトルは、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』を想起させます。なお、ユートピア主義的社会工学については、ポパー前掲1下95頁以下。

*9:「PHASE-36 アスラン脱走」。

*10:同上

*11:デスティニープランが分かりにくい理由の一つは、このプランがデュランダルの幸福観と結びついており、なおかつその幸福観が狭隘であることです。「PHASE-36 アスラン脱走」で、デュランダルはキラを題材として自らの幸福観を披露しています。しかし、幸福の内容は人によって異なると解されます(この点について、たとえば日本国憲法13条の文言が「幸福権」ではなく、「幸福追求……権」(元ネタのアメリカ独立宣言では、"the pursuit of happiness") となっているのは、人によって何が幸福であるかは異なるからであるという旨の文章を読んだ覚えがあるのですが、出典を失念していまいました。佐藤幸治か団藤重光だったような気もします。文献を特定したら補足します)。

*12:したがって、遺伝子的に適性があったのに、環境(という初期条件)の変化によって適性がなくなることもあり得ます。そもそも、環境の変化がなくても、遺伝子的に適性があることと、実際に適性があることとは別の問題です。遺伝子という要素だけで社会現象を説明・予測しようとする試みは、群盲象をなでるということになります。

*13:実はデスティニープランだけでは、目指すべき社会像は不明のままです。たとえば、デュランダルは「人類の防衛」、「戦争の根絶」が実現されるような社会像を念頭に置いていたように見えます(もちろん「人類の防衛」、「戦争の根絶」だけでは抽象的なスローガンにすぎないので、改めて「人類」、「防衛」、「戦争」、「根絶」の意味などが問題となりますが)。しかし、たとえば富を集中することも再分配することも原理的には可能です。また、「重篤な疾病原因」のある者を保護することも見捨てることも原理的には可能です。さらに、ファウンデーションはデスティニープランを採る一方で、帝政を採っています。このことから、デスティニープラン自体は世襲を原理上排除するわけではないということに気づかされます(あるいは、「人類の救済」を実現するために帝政が必要と判断されることも原理的にはあり得ます。ただし、ファウンデーションの帝政が実際に世襲を予定するものであったかどうかは不明です。また、デスティニープランは遺伝子の適性を考慮するため、それ自体が血統主義というわけではありません)。荒唐無稽ですが、たとえば「ネコをあがめること」が目指すべき社会像となった場合はどうでしょうか。おそらく、デスティニープランはネコをあがめるという社会像を実現するために最適化される(=「ネコをあがめる」という社会像の実現という観点から各人の遺伝子の適否が判断される)はずです。ここで重要なのは、デスティニープランを採用したからといってユートピアが訪れないとはかぎらないということではなく、デスティニープランを採用したからといってユートピアが訪れるとはかぎらないということです(そして、訪れなかった場合の弊害がむしろ甚大になる蓋然性が高いと思われます。たとえば、ファウンデーションでは、デスティニープランに反対する者は殺され、また、賛成する者も核攻撃によって「役割」にしたがって(?)殺されています。「役割にしたがって生きる」ということは「役割にしたがって死ぬ」ということでもあります。そして、それは定義によって「幸福」なのです)。そのうえで、目指すべき社会像の設定自体は、デスティニープランとは別の方法によって決めざるを得ないということになりますが、まさかジャンケンで決めるということにはならないと思います。ここは、純粋法学が根本規範 (Grundnorm) の内容を空白としたために、かえってナチズムの台頭を許したことが思い起こされます。

*14:アコードはデスティニープランの管理者として想定されていますが、この「管理者」がシステム運用保守者(地位としては生体CPUと同じではないのか?)のことなのか、支配者すなわち根本規範の制定改廃権者のことなのかは不明です。後者であるとすれば、誰が統治すべきかという政治哲学上の問題(ポパー前掲18頁)に対する、もっとも賢い者が統治すべき(賢人支配)という解答の変種ということになります(同55頁以下。しかし、政治哲学上、より重要な問題は、誰が支配者であるかというよりも、不幸にも悪い者または無能な者が支配者になってしまった場合に、悪い支配者または無能な支配者の権力を抑制し、または流血なく解職するにはどうすればよいかであると考えられます(同19頁以下))。

*15:デスティニープランの要は、知の権威としての遺伝子工学と、暴力の制度化としての軍隊・警察であると解されます。

*16:戦争の根絶という目的に対して、デスティニープランは手段としての適合性がそもそもないということです。「戦争」という語の多義性を前提として、デュランダルがどの程度まで暴力を根絶しようとしていたのかは定かではありません。しかし、制度の維持に必要な限度の武力・警察力の保持、威嚇、行使は想定されていたはずです。しかも、制度の導入自体が任意ではないので、維持だけでなく導入においても暴力が必要となります。ただし、暴力の必要性はべつにデスティニープランに特有のものではないと言われれば、それはその通りです。

*17:その他の論点として、遺伝子という脱却不可能な特徴に基づく差異的な取り扱いは規範的に許されるかなど。

*18:ファウンデーションと対比することで考えたことですが、デュランダル自身が幸福→戦争根絶という理路をどこまで信じていたか怪しく思えてきます。ひょっとすると、デュランダルはクルーゼがやったのと同じことを上品にやっていただけなのではないかという気もしてきます。すなわち、タリアと結婚できなかった。しかし、遺伝子的にしかたない。人類のため。むしろ、これを受け入れることが私個人の「幸福」でもある。ところで、「幸福」なら誰も争わなくて済む。それなら、私と同じように皆が「幸福」になれば、戦争はなくなるはず(でなければ許せない)という壮大なイヤミではないでしょうか。それを真に受けた(真に受けざるを得なかった)アコードはいい面の皮ということになります。しかし、この注は穿ちすぎかもしれません。

*19:ポパー前掲2上209頁。

*20:遺伝子工学という科学的衣装をまとった、神なき神学と解してよいと思います。「PHASE-44 二人のラクス」で、マリューも「運命が王なのよ。遺伝子が。彼は神官かしらね」と言っています。

心理学主義的社会(観)

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(矢立肇、富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2004年)のネタバレを含みます。


1. はじめに*1
『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、一つの特徴的な社会観(世界観というより)が表れています。そこで、以下では、作中人物の一人であるデュランダルが提起した二つの問いを検討する形で、その社会観を浮かび上がらせます。

 

2. デュランダルの戦争原因論*2
一つ目の問いは、作中において「なぜ戦争はこうまでなくならないのか」です。

戦争*3は、自然現象とは異なり、直接的には人間の行為によって引き起こされるものです。しかし、「戦争はいやだと、いつの時代も人は叫び続けてい」るとされています。すなわち、たいていの人間は戦争したくないということです。にもかかわらず、現に戦争は起きています。

そこで、自分達ではない誰か一部の人間が戦争をしたいと思っているから戦争はなくならないのだと考えたくなります。
シンは、「いつの時代も身勝手で馬鹿な連中がいて……ブルーコスモスや大西洋連邦みたいに」と答えています。また、デュランダル自身は、「あれは敵だ」、「人類の歴史には、ずっとそう人々に叫び、つねに産業として戦争を考え、作ってきた者達がいるのだよ。自分達の利益のためにね」と答えています。
シンの答えは心理学主義、デュランダルの答えは陰謀論と呼ばれるものです。これら二つの答えは、戦争は人間の意図(たとえば憎悪、狂気などの心理、陰謀)の結果であると説明する点で共通しています*4*5。

しかし、心理学主義、陰謀論に対しては、一部の人間の意図がなぜたやすく実現してしまうのかという疑問があります。
たいていの人間が戦争を望んでいないのに戦争が起きるということは、少なくとも戦争に関するかぎりでは人間の意図と結果とがたいてい食い違うということです。すなわち、一部の人間の意図さえめったに実現しないということです。つまり、任意の戦争について、仮に陰謀が存在していたとしても、当該戦争が当該陰謀の結果である蓋然性はきわめて低いということになります。
にもかかわらず、一部の人間が例外であり得るのはなぜか、少なくともその機序(メカニズム)を説明する必要があります*6。

 

3. デュランダルの戦争根絶論*7
心理学主義、陰謀論を前提として、デュランダルが提起した二つ目の問いは、戦争を「もう二度と繰り返さない」ためには、どうすればよいのかです。

デュランダルは、戦争の原因である陰謀(ロゴス)と心理(「無知と欲望」)のうち、前者については「ようやくそれを滅ぼすことができた」とする一方で、後者についてはこれを克服するために、遺伝子工学に基づきデスティニー・プランと称する一種のユートピア主義*8的制度を提唱します。

まとめれば、以下の通りです。
①「誰もが皆幸福に生きられる世界になれば、もう二度と戦争など起きはしない」*9。
②「幸福に生き」るとは、「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」ことである*10。
③ 「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」るとは、「資質のすべて、性格、知能、才能、また重篤な疾病原因の有無の情報」を知り、それにしたがって生きることである。
④この制度の妥当性は遺伝子工学によって、実効性は暴力によって担保される*11。

しかし、①は因果関係が不明です。②は幸福の名目的再定義です。仮に①、②を肯定するとしても、③遺伝子は各人の社会的な役割を一義的に導き出すことはできません。なぜなら、適応すべき環境は一義的ではないところ、各人の資質に対応した社会的な役割を用意できるかは別の問題だからです。また、④全世界を実験場とする全体的かつ急進的な計画であるため、「かならず反発を生」むとすれば、やはり戦争は不可避です。

したがって、デスティニー・プランは、少なくとも戦争根絶のための政策としては不適切であったと解されます。

 

4. まとめ
陰謀論の淵源は、古代ギリシャのホメロス的運命論にあるとされています*12。すなわち、ホメロスによれば、世界で起こるすべての出来事の原因は、オリンポスの神々の陰謀です。陰謀論では、「人間」が「神々」に取って代わっただけです。
また、陰謀論を前提とするデスティニー・プランでは、「遺伝子」が「人間」に取って代わっただけです。その結果、教条的という意味では運命論的です*13が、社会政策としてはむしろ場当たり的になってしまったのではないかと思われます。

もっとも、作品世界では、デスティニー・プランが戦争根絶論として拒否されても、戦争原因論としての心理学主義が拒否されているようには見えません。
しかも、単に社会観であるにとどまらず、実際にこの作品の社会が心理学主義的にできている疑いがあります*14。そこで、このような社会を心理学主義的社会と称することができると思います。

*1:本稿は、2005年頃に書いたもののどこにも発表することなく放置したままになっていた文章に手を加えたものです。最近、再放送していたので、これを機に、アップすることにしました。

*2:以下、カギカッコ内は一部を除いて「PHASE-19 見えない真実」から引用。

*3:「戦争」という語は多義的です。以下ではとくに区別しませんが、手段としての武力行使を意味する場合もあれば、その結果としての戦争状態を意味する場合もあります。

*4:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』2上、小河原誠訳、岩波文庫、2023年、197頁以下。したがって、陰謀論は心理学主義の変種と解することができます。

*5:「PHASE-48 新世界へ」でも、デュランダルは「有史以来、人類の歴史から戦争のなくならぬわけ」は、「一つには間違いなくロゴスの存在」(陰謀)であるとする一方で、「我々自身の無知と欲望」(心理)であるとしています。

*6:陰謀論批判は、陰謀があったとしても、めったに成功しないから陰謀論は一般的な説明としては適切でないとしているだけで、陰謀は存在しないとか陰謀は成功しないとかしているわけではありません。デュランダルによれば、現にこの戦争はロゴスという陰謀家によって仕組まれたものであり、およそすべての戦争がそうであるとされています。作中で陰謀が成功しやすい理由の一つは、おそらく社会関係の単純性ではないでしょうか。すなわち、特定の一個人(たとえばブルーコスモス盟主、ザフト最高評議会議長など)の意図が即座に結果として実現するような、効率的な(=短絡的な)制度、伝統、慣習が確立されており、その結果、この作品の社会(世界というより)は、人間の気まぐれ的な意図に対してきわめて敏感に反応するのではないかと思われます。

*7:以下、一部を除いて、カギカッコ内は「PHASE-48 新世界へ」から引用。

*8:「PHASE-48 新世界へ」というサブタイトルは、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』を想起させます。

*9:「PHASE-36 アスラン脱走」。

*10:同上。

*11:デスティニー・プランの要は、遺伝子工学という知の権威と、暴力の制度化としての軍隊であると解されます。

*12:ポパー前掲209頁。

*13:遺伝子工学という科学的衣装をまとった、神なき神学と解してよいと思います。

*14:視聴者が生きているこの世界とは異なる世界での出来事である(仮に視聴者が生きているこの世界と地続きの未来の世界であるとしても)のはたしかですが、これはあくまで作品世界そのものというよりは、作品世界の中にある一社会の問題です。作品世界が作中人物の意図通りに変化するようにできているか、また、それを超えて作品世界が作品の作り手の意図通りに変化するようにできているかについては、言及していません。

バルトフェルド問題

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED』「PHASE-21 砂塵の果て」(矢立肇、富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2002年)のネタバレを含みます。

 

1. 問題の所在*1
タルパティアの戦闘において、「勝敗は決した」にもかかわらず、バルトフェルドは撤退せずに戦い続けています。この理由について、バルトフェルド自身は、「戦うしかなかろう、互いに敵であるかぎり。どちらかが滅びるまでな」と答えています*2。すなわち、バルトフェルドが撤退せずに戦い続けたのは、戦争という状況の必然的な結果であるということです(状況必然説)*3。

しかし、この状況必然説には難点があります。
そもそも、この説の根拠である「戦うしかなかろう、互いに敵であるかぎり。どちらかが滅びるまでな」(以下、「敵を滅ぼすしかない」と省略)というテーゼ*4は、キラとの会話の中で、「どうなったらこの戦争は終わるのか」という問いに対する一つの答えとして登場したものです*5。戦争には他に「明確な終わりのルールはない」というのがその根拠でした。

敷衍すれば、以下の通りです。たいていの戦争では、「敵である者をすべて滅ぼ」さなくても適当な落とし所がある。しかし、落とし所のない場合もあり得る。その場合、「戦争は終わった」と明確に言えるのは、「敵である者をすべて滅ぼし」たときだけである。この一般論を前提として、このプラントと地球連合との戦争は、まさにそういう戦争である。したがって、この戦争を終わらせるには、「敵を滅ぼすしかない」。

しかし、仮にプラントと地球連合との戦争を終わらせるためには「敵を滅ぼすしかない」としても、バルトフェルド隊とアークエンジェルとの戦闘を終わらせるためにも「敵を滅ぼすしかな」かったということには必ずしもなりません。当該戦争と当該戦闘との同型性、すなわち、タルパティアの戦闘において「敵を滅ぼ」さずに済む落とし所がなかったという事実が必要となります。
ところが、タルパティアの戦闘では、撤退するという落とし所がありました。したがって、この戦闘を終わらせるには「敵を滅ぼすしかな」かったという状況必然説は、誤りであると解されます。

そこで、なぜバルトフェルドは撤退せずに戦い続けたのかが改めて問題となります。

 

2. 問題の性質
この問題は、「敵を滅ぼす」ことがプラントと地球連合との戦争を終わらせるのに実践的に有効かを問うているのではありません。また、「敵を滅ぼす」ことが道徳的に善いのかを問うているのでもありません。この問題が問うているのは、バルトフェルドの行為の理解可能性です。
すなわち、私達は理解できない行為をする人のことをしばしば狂人とみなしますが、バルトフェルドはこの意味での狂人なのではないかというのがこの問題で問われていることです。

バルトフェルドの行為は一見して不合理です。しかし、行為の合理性を評価する視点として、普通人のものと本人のものとを用意すれば、不合理な行為はさらに二つに分かれます。
一つは、普通人の視点からは理解不可能でも、本人の視点からは理解可能なものです(適度に不合理な行為)。もう一つは、普通人の視点からはもちろん、本人の視点からも理解不可能なものです(度を超して不合理な行為)。
したがって、普通人の視点から不合理の疑いがある行為であっても、本人の視点から整合的な説明を見出すことができれば、人格を回復することができます。

 

3. いくつかの仮説*6
①説は、この戦争全体の観点から見てもキラの戦力が桁違いであることから、後顧の憂いを絶つために命懸けでこれを削減しようとしたからというものです(戦力削減説)。
これは一応、客観的な状況に適合した解釈であると思われます。

②説は、客観的に「敵を滅ぼすしかない」状況ではなかったのに、主観的にそう誤認したからというものです(状況誤認説)*7。
しかし、バルトフェルド自身が「勝敗は決した」と言っている*8ことから、この説は採り得ません。

③説は、状況は正しく認識していたが、この戦争を終わらせるには「敵を滅ぼすしかない」ならば、この戦争のどの戦闘においても「敵を滅ぼすしかない」と信じたからというものです(規範誤解説)。
しかし、バルトフェルド自身が部下に撤退命令を出している*9ことから、それほど頑迷ではなかったことがうかがえます。したがって、この説も採り得ません。

④説は、キラが気に入った*10ので、戦場の厳しさを身をもって教えようとしたからというものです(反面教師説)。

⑤説は、砂漠勤務で退屈していたところに、自分の実力を存分に発揮できそうな強敵としてキラが現れたので、この機に乗じて決闘しようとしたからというものです(決闘目的説)*11。

以上の説のなかでは、④説か⑤説あたりが、バルトフェルドの人物をもっとも魅力的に説明できている気がします。
なお、④説および⑤説では、なぜバルトフェルドが「敵を滅ぼすしかない」とわざわざ言ったのかがさらに問題となります。④説では、まさしくそう言うことこそが本来の目的ということになります。これに対し、⑤説では、決闘という本来の目的を隠すための偽装(カムフラージュ)ということになります。

*1:本稿は、2004年頃に書いたもののどこにも発表することなく放置したままになっていた文章に手を加えたものです。最近、再放送していたので、これを機に、アップすることにしました。

*2:「PHASE-21 砂塵の果て」。

*3:作品世界中でも、戦争という状況の必然的な結果であると解されているふしがあります。たとえば、「PHASE-26 モーメント」および「PHASE-27 果てなき輪舞(ロンド)」の語り手(ナレーター)の解釈。

*4:埴谷雄高のいわゆる「やつは敵だ。敵を殺せ」を彷彿とさせます。

*5:「PHASE-19 宿敵の牙」。

*6:思いつくままに仮説をいくつか列挙しましたが、もちろんこれらに尽きるものではありません。

*7:②説以降は、状況の必然的な結果ではなく、バルトフェルドの心理に因るものであるという説です。

*8:「PHASE-21 砂塵の果て」。

*9:同上

*10:同上。アイシャは、「ああいう子、好きでしょうに」と言って、バルトフェルドがキラのことを気に入っていると考えています。

*11:後藤リウ『機動戦士ガンダムSEED②砂漠の虎』(矢立肇、富野由悠季原作、角川スニーカー文庫、電子書籍版2014年)は、⑤説に近いと解されます。たとえば、「バルトフェルドは退屈していた」、「彼を満足させるような相手がいないことが、彼のひそかな不満だったのだ」、「いつもは眠らせておくしかない自分の能力を、最大限まで引き出してくれそうな相手だった。あんな戦闘は経験したことがない。あんなに夢中になって打ち込めるものを、彼は今まで見いだしたことがなかった」(PHASE 02、電子書籍版ではページ数不明のため、本文を引用します)、「知りたい。本気になった自分がどれくらい戦えるのか」(PHASE 03)、「指示を一方的に告げたあと、ダコスタがわめくのにもかまわず、彼は通信を切った。かわいそうだが、彼らは彼らでやってもらうしかない。バルトフェルドは、本当に面白いものを見つけてしまったのだから」(PHASE 05)など。

原因において自由な行為説(仮)

以下の文章は、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(宮本幸裕監督、新房昭之総監督、シャフト制作、2013年)のネタバレを含みます。


『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の解釈論を書き終えることができないまま、8年あまり経ってしまいました。
書き終えることができなかった原因は、自説を書く前提としてまず他説を書く予定だったところ、自分の採っていない他説*1を説得的に書くことができなかったからです。

できればそのうち続きを書きたいと思っていますが、とりあえず自説の結論を簡単に書いておきます。
ほむらが悪魔になったのはなぜかというと、最初からその予定だったからです。なぜ最初からその予定だったのかというと、ほむらが求めていたのは現世利益だったからです。では、なぜ今まで実行しなかったのかというと、まどかの言葉に縛られていたからです。そこで、まどかの新たな言質を得るために、キュゥべえの介入を奇貨として結界世界に入り、その目的を果たしたということです。

なお、結界世界に入る前のほむらと結界世界から出た後のほむらとは同一人格です(外ほむら)が、結界世界内のほむら(魔女のようになった後のほむらも含めて、内ほむら)はそれらとは別の人格であると思われます(結界が消滅すると同時に内ほむらの人格は実は消滅しており、外ほむらとは人格が連続していないという意味です。ほむらの悪魔化が唐突に見えるのはそのためと解することになります。また、まどかの言質を得た後の結界世界内での出来事は、外ほむらにとってはそれほど重要ではなかった可能性があります)。

この解釈は、ほむらが別人格の自分(?)をあたかも道具として利用しているところから、道具理論、または原因において自由な行為説などとひとまず仮称しておきます*2。

*1:ここでいう他説とは、ほむらの悪魔化がキルケゴール的な段階的絶望によるものという説です。この説はわりと一般的な解釈ではないかと思います。

*2:本来、原因において自由な行為 (actio libera in causa) とは、刑法学上の概念で、狭義には、「実行行為が、行為者自身の責任能力を欠いた状態、すなわち、心神喪失状態を利用して行われたとみられる場合」のことです(大塚仁『刑法概説(総論)』有斐閣、第3版増補版、2005年、159頁)。その可罰生を肯定する理論構成にはいくつか考えられますが、本文の「道具として利用」という考え方は間接正犯類似構成といわれるものです(もっとも、ほむらは責任能力をなくしているというより、記憶をなくしているだけですが)。