私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(6) - 流れるアニメとよどむ目のつづき
下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(Magica Quartet原作、新房昭之総監督、宮本幸裕監督、シャフト制作、2013年)
(2)[新編](イ)(つづき)
(d) ほむらの絶望が極まったのはいつか
上記 (a) 現実逃避説、(b) 弱気の絶望説、(c) 傲慢の絶望説はそれぞれ、キルケゴールのいわゆる(a) 無知の絶望(無意識の絶望)、(b) 弱気の絶望、(c) 傲慢の絶望(悪魔の絶望)の段階*1にだいたい対応します。
(a) 現実逃避説、(b) 弱気の絶望説、(c) 傲慢の絶望説では、結界を形成する前の段階(苦難の神義論)と結界を形成した後の段階(ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット)とが、無知の絶望のグラデーションとして滑らかに連続すると解されているように見えます。また、結界が崩壊する前の段階と結界が崩壊した後の段階とも、傲慢の絶望のグラデーションとして滑らかに連続すると解されているように見えます*2。そこで、この一連の解釈を連続説と称することにします。
しかし、円環の理(の一部)を奪う際、ほむらは「この時を待ってた」、「やっと捕まえた」と言っています。これらの言葉の内容が正しいならば(おそらく正しいでしょう)、新たな問題が生じます。
すなわち、「待ってた」、「やっと」という語は、期限が到来していない、または、条件が成就していない状態が時間的に継続していたことを含意しています。では、いつからその状態が継続していたのか、すなわち、ほむらはいつから傲慢の絶望段階にあり、円環の理を奪うつもりだったのかが問題となります。
奪取行為時から遡れば、候補としては、
現実世界で目が覚めた時
↑
インキュベーターの干渉がなくなった時
↑
魔女になった時
↑
現実世界と結界世界との関係を知らされた時
↑
結界世界内のまどかの気持ちを聞いた時
↑
犯人探しを始めた時
↑
インキュベーターの介入によって結界を形成した時
↑
円環の理の秘密をインキュベーターに話した時
などを挙げることができます。
「待ってた」と言うからには、少なくとも、現実世界のほむらが力尽きかけており、もうすぐ円環の理が迎えに来るという状況を予見している必要があります。したがって、結界世界内のまどかの気持ちを聞いた時、犯人探しを始めた時は候補から外れます。
他方、「ずっと」と言うからには、現実世界で目が覚めた時、インキュベーターの干渉がなくなった時、魔女になった時、現実世界と結界世界との関係を知らされた時は、状況の予見はありますが、時間的な継続という点からは短すぎます。したがって、これらも候補から外れます。
そこで、残るのは、インキュベーターの介入によって結界を形成した時、円環の理の秘密をインキュベーターに話した時です。前者では、過失(結果の予見可能性あり)によってインキュベーターの介入を招いたものの、それを奇貨として故意(結果の予見+意欲あり)に結界を形成したことになります。これに対し、後者では、インキュベーターの介入も結界の形成も故意によるものであるということになります。
どちらにしても、結界世界内のほむらが記憶を操作される前のことです。ところで、結界を形成する前のほむらと結界世界内のほむらとは記憶が連続していない*3ということは、連続説でも認めざるを得ないはずです。そして、記憶の連続性の有無は、絶望に関する意識の有無・程度に影響を及ぼします。とくにほむらの場合、絶望に関する意識の有無・程度においても連続性が絶たれていると解するしかないように思えます。ところが、連続説では、無知(無意識)という概念を介して、結界形成前のほむらと結界世界内のほむらとの関係が曖昧になっています。そこで、両者の関係を明確にすると、円環の理の奪取を企てたほむらが記憶のない状態の自己をまどかの言質を取るための道具として利用したと解するのが妥当だと思います。
責任能力のない状態の自己を道具として利用する場合を原因において自由な行為 (actio libera in causa) と称します*4。ほむらの場合は責任能力ではなく記憶ですが、記憶を操作されている状態はこれとほとんど同等と見ることができます*5*6。そこで、この解釈を原因において自由な行為説と称することにします。
他方、結界が崩壊する前の段階と結界が崩壊した後の段階との関係はどう解するべきでしょうか。
原因において自由な行為説でも、(b) 最終的に傲慢の絶望に至った結界世界内のほむらと (c) 結界形成前にすでに傲慢の絶望に至っていた結界から出た後のほむらとは記憶においても絶望においても連続していると解することもできます((b) の記憶を体験としてではなく知識として引き継いでいるという解釈も可能でしょう)。
しかし、(b) ほむらと (c) ほむらとは連続しておらず、連続しているのは (a) 現実世界で結界を形成する前のほむらと (c) ほむらであると解することもできます。この場合、仮に (b) 結界世界内のほむらが傲慢の絶望に至っていたとしても、(a)=(c) ほむらからすれば偶然にすぎないということになります(私はこの解釈に傾いています)。
この解釈によれば、この時を「待ってた」のも「やっと」捕まえたのも、(a)=(c) ほむらであるということになります((b) ほむらは消滅?)。すると、(c) 目覚めた後のほむらの視点移動(さやか、なぎさ確認→マミ、杏子確認→まどか確認)は、状況の即時把握のためであったということになります*7。
3. まとめ
(1)『始まりの物語』、『永遠の物語』(≒TVシリーズ)
「まどかを守る私になりたい」というほむらの願いが叶うためには、まどかを死なせない、魔女にならせないことが必須です。たしかにまどかは死ぬことも魔女になることもありませんでした。しかし、あの結末です。そこで、「まどかを守」ったといえるのかがほむらにとって問題となります。
しかし、ほかならぬ「まどかの望んだ結末」である以上、ほむらに解釈の余地はありません。そこで、ほむらは「まどかを守る」の意味について解釈の転換を余儀なくされます。すなわち、「救いようのない世界だけれど」、「あの子が守ろうとした場所」、「だから私は戦い続ける」、それが自分の使命。
これはまどかによる改変後の世界、まどか、自分の置かれている不条理に「説明」を与える苦難の神義論です。
(2)『叛逆の物語』
その先に「まどかを守る」だけでなくそのような「私になりたい」という願いの変奏が描かれたのが『叛逆の物語』ではないかと思われます。
ほむらは、苦難の神義論による解釈の転換に失敗し、認知的不協和に陥ります。ほむらにとって円環の理は物理法則としてよりも道徳法則として問題なのです。
そこで、キュゥべえの介入を契機として、記憶のない自己を道具として利用し、まどかの言質を取ります。そして、まどかの言質によって円環の理に対してやっと反駁(叛逆)することができたということになります。
了
*1:キルケゴール「死にいたる病」(松浪信三郎訳)『死にいたる病/現代の批判』松浪信三郎・飯島宗亮訳、白水社、2008年(初出1990年)、 18-20頁。
*2:弱気の絶望はさらに、(b-1) この世またはこの世の何ものかについての絶望、(b-2) 永遠的なものもしくは自己自身についての絶望に分けられています(キルケゴール前掲79, 95頁)。これを細かくあてはめれば、だいたい、(a) ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット、(b-1) 犯人探し、(b-2) 魔女、(c) 悪魔ということになるでしょうか。
*3:記憶の連続性が絶たれているだけではありません。この時のほむらの体は結界の外にあります。だとすると、結果内のほむらの体は、似てはいるが別物であり、身体の連続性もないということになります(そもそも身体ではない?)。なお、結界に誘導・捕獲された他の「犠牲者」については、記憶は操作されていますが、体は結界内にあり、身体の連続性は保たれています。
*4:大塚仁『刑法概説(総論)』有斐閣、第3版増補版、2005年、159頁、井田良『講義刑法学・総論』有斐閣、2018年、第2版、493頁以下。本文の「道具として利用」という見解は、道具理論とか間接正犯類似説とか構成要件モデルとか称されるものです。原因において自由な行為は、原因行為と結果行為との関係について、結果行為を原因行為に帰責する理論的工夫です。ほむらの場合、原因行為に対する結果行為は、まどかの言質を取ることです。これは刑法上の犯罪というわけではなく、円環の理を道徳法則とした場合における道徳上の罪ということになります。
*5:ただし、結果的には同じでも、理屈はやや異なるかもしれません。すなわち、記憶をその都度操作されているのであれば、それは催眠状態(心神喪失の一例)と同じです。しかし、そうではなく、記憶操作後はその都度状況のほうを調整することによって真相に気づかせないようにしているように見えます。
*6:インキュベーターは記憶を操作されているわけではありません。また、自ら規範に直面しています(やってはいけないと分かっているのに、あえてやっている)。したがって、インキュベーターの行為に対するほむらの助力は、片面的幇助になると思います。なお、インキュベーターは円環の理(初期条件→結果の形式で言い直せば、「魔法少女を浄化し、消滅させる力」による現象が存在すること)については認識しているので、その検証方法についてもほむらのヒントなしで到達できていた可能性はあります。ほむらは円環の理の正体を特定する「手間を省い」ただけとも。
*7:ところで、悪魔ほむらによる改変後の見滝原にほむらが存在するのは、創造主が世界内に顕現している状態なのでしょうか。あるいは、このほむらも偽者なのでしょうか。あるいは、汎神論ならぬ汎魔論でしょうか。