遺伝子還元主義的運命論

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(矢立肇富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2004年)、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(同、2024年)のネタバレを含みます。


1. はじめに
機動戦士ガンダムSEED DESTINY』、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』では、戦争が主題となっています。そこで、以下では、作中人物の一人であるデュランダルが戦争という社会現象について提起した二つの問いを検討します*1


2. デュランダルの戦争原因論*2
一つ目の問いは、作中において「なぜ戦争はこうまでなくならないのか」です。

戦争*3は、自然現象とは異なり、直接的には人間の行為によって引き起こされるものです。しかし、「戦争はいやだと、いつの時代も人は叫び続けてい」るとされています。すなわち、たいていの人間は戦争したくないということです。にもかかわらず、現に作中では戦争が起きています。

そこで、自分達ではない誰か一部の人間が戦争をしたいと思っているから戦争はなくならないのだと考えたくなります。
シンは、「いつの時代も身勝手で馬鹿な連中がいて……ブルーコスモス大西洋連邦みたいに」と答えています。また、デュランダル自身は、「あれは敵だ」、「人類の歴史には、ずっとそう人々に叫び、つねに産業として戦争を考え、作ってきた者達がいるのだよ。自分達の利益のためにね」と答えています。
シンの答えは心理学主義デュランダルの答えは陰謀論と呼ばれるものです。これら二つの答えは、戦争は人間の意図(たとえば憎悪、狂気などの心理、陰謀)の結果であると説明する点で共通しています*4*5

しかし、心理学主義、陰謀論に対しては、一部の人間の意図がなぜたやすく実現してしまうのかという疑問があります。
たいていの人間が戦争を望んでいないのに戦争が起きるということは、少なくとも戦争に関するかぎりでは人間の意図と結果とがたいてい食い違うということです。すなわち、一部の人間の意図さえめったに実現しないということです。つまり、任意の戦争について、仮に陰謀が存在していたとしても、当該戦争が当該陰謀の結果である蓋然性はきわめて低いということになります。
にもかかわらず、一部の人間が例外であり得るのはなぜか、少なくともその機序(メカニズム)を説明する必要があります*6


3. デュランダルの戦争根絶論*7
心理学主義、陰謀論を前提として、デュランダルが提起した二つ目の問いは、戦争を「もう二度と繰り返さない」ためにはどうすればよいのかです。

デュランダルは、戦争の原因である陰謀(ロゴス)と心理(「無知と欲望」)のうち、前者については「ようやくそれを滅ぼすことができた」とする一方で、後者についてはこれを克服するために、デスティニープランと称する一種のユートピア主義*8的制度を提唱します。

まとめれば、以下の通りです。
①「誰もが皆幸福に生きられる世界になれば、もう二度と戦争など起きはしない」*9
 (a)「幸福に生き」るとは、「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」ことである*10
 (b)「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」るとは、「資質のすべて、性格、知能、才能、また重篤な疾病原因の有無の情報」を知り、それにしたがって生きることである。
②この制度の妥当性は遺伝子工学によって保証される。

しかし、①は因果関係が不明です((a) および (b) は「幸福」の名目的再定義です)*11。また、仮に①を肯定するとしても、遺伝子という要素だけで各人の社会的役割を一義的に導き出すことは、事実上困難であるというだけでなく、原理上不可能です。なぜなら、適応すべき環境自体が一定ではなく、遺伝子以外のさまざまな社会的要因によって変化するからです*12*13*14
また、②全世界を実験場とする全体的かつ急進的な計画であるため、「かならず反発を生」むのであれば、この制度の実効性を保証するのは究極的には暴力しかありません*15。やはり戦争が不可避となるのではないでしょうか*16

したがって、デスティニープランは、少なくとも戦争根絶のための政策としては不適切であったと解されます*17*18


4. まとめ
陰謀論の淵源は、古代ギリシャホメロス的運命論にあるとされています*19。すなわち、ホメロスによれば、世界で起こるすべての出来事の原因は、オリンポスの神々の陰謀とされています。陰謀論では、「一部の人間」が「オリンポスの神々」に取って代わっているのです。
そのうえで、デスティニープランは、社会現象の遺伝子還元主義です。すなわち、遺伝子を初期条件として結果としての社会問題を解決する政策と解されます。そこでは、「遺伝子」が「オリンポスの神々」に取って代わっいるのです。
その結果、教条的という意味では運命論的です*20が、社会政策としては社会現象を適切に分析することができず場当たり的になってしまうのではないかと思われます。

*1:本稿は、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の鑑賞前に書いた「心理学主義的社会(観)」

https://truth-in-anime.hatenablog.com/entry/2024/01/24/192513

を鑑賞後に大幅に加除修正したものです。なお、心理学主義的社会云々については生煮えであるため削除し、デュランダルのとなえる戦争の原因とその対策(とくに後者)とに絞って書くことにしました。

*2:以下、鉤括弧内は一部を除いて「PHASE-19 見えない真実」から引用。

*3:「戦争」という語は多義的です。紛争解決手段としての武力行使を意味する場合もあれば、その結果としての戦争状態を意味する場合もあります。

*4:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』2上、小河原誠訳、岩波文庫、2023年、197頁以下。したがって、陰謀論は心理学主義の変種と解することができます。

*5:「PHASE-48 新世界へ」でも、デュランダルは「有史以来、人類の歴史から戦争のなくならぬわけ」は、「一つには間違いなくロゴスの存在」(陰謀)であるとする一方で、「我々自身の無知と欲望」(心理)であるとしています。

*6:陰謀論批判は、陰謀は存在したとしてもめったに成功しない(から陰謀論は一般的な説明としては適切でない)としているだけで、陰謀はいっさい存在し得ないとか陰謀はいっさい成功し得ないとか批判しているわけではありませんデュランダルによれば、現にこの戦争はロゴスという陰謀家によって仕組まれたものであり、およそすべての戦争がそうであるとされています。もしそれが本当であるとすれば、作中で陰謀が成功しやすい理由の一つは、おそらく社会関係の単純性ではないでしょうか。すなわち、特定の一個人(たとえばブルーコスモス盟主、ザフト最高評議会議長など)の意図が即座に結果として実現するような、効率的な(=短絡的な)制度、伝統、慣習が確立されており、その結果、この作品の社会(世界というより)は、一部の人間の意図に対してきわめて敏感に反応するのではないかと思われます(しかし、これはすでに心理学主義な見方ではなく、制度主義的な見方になっています。なお、心理学主義か制度主義かという論点とは別に、個人を超えたたとえば「人類」という集団に独自の意志を認めるかという論点もあります)。

*7:以下、一部を除いて、鉤括弧内は「PHASE-48 新世界へ」から引用。

*8:「PHASE-48 新世界へ」というサブタイトルは、オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』を想起させます。なお、ユートピア主義的社会工学については、ポパー前掲1下95頁以下。

*9:「PHASE-36 アスラン脱走」。

*10:同上

*11:デスティニープランが分かりにくい理由の一つは、このプランがデュランダルの幸福観と結びついており、なおかつその幸福観が狭隘であることです。「PHASE-36 アスラン脱走」で、デュランダルはキラを題材として自らの幸福観を披露しています。しかし、幸福の内容は人によって異なると解されます(この点について、たとえば日本国憲法13条の文言が「幸福権」ではなく、「幸福追求……権」(元ネタのアメリカ独立宣言では、"the pursuit of happiness") となっているのは、人によって何が幸福であるかは異なるからであるという旨の文章を読んだ覚えがあるのですが、出典を失念していまいました。佐藤幸治か団藤重光だったような気もします。文献を特定したら補足します)。

*12:したがって、遺伝子的に適性があったのに、環境(という初期条件)の変化によって適性がなくなることもあり得ます。そもそも、環境の変化がなくても、遺伝子的に適性があることと、実際に適性があることとは別の問題です。遺伝子という要素だけで社会現象を説明・予測しようとする試みは、群盲象をなでるということになります。

*13:実はデスティニープランだけでは、目指すべき社会像は不明のままです。たとえば、デュランダルは「人類の防衛」、「戦争の根絶」が実現されるような社会像を念頭に置いていたように見えます(もちろん「人類の防衛」、「戦争の根絶」だけでは抽象的なスローガンにすぎないので、改めて「人類」、「防衛」、「戦争」、「根絶」の意味などが問題となりますが)。しかし、たとえば富を集中することも再分配することも原理的には可能です。また、「重篤な疾病原因」のある者を保護することも見捨てることも原理的には可能です。さらに、ファウンデーションはデスティニープランを採る一方で、帝政を採っています。このことから、デスティニープラン自体は世襲を原理上排除するわけではないということに気づかされます(あるいは、「人類の救済」を実現するために帝政が必要と判断されることも原理的にはあり得ます。ただし、ファウンデーションの帝政が実際に世襲を予定するものであったかどうかは不明です。また、デスティニープランは遺伝子の適性を考慮するため、それ自体が血統主義というわけではありません)。荒唐無稽ですが、たとえば「ネコをあがめること」が目指すべき社会像となった場合はどうでしょうか。おそらく、デスティニープランはネコをあがめるという社会像を実現するために最適化される(=「ネコをあがめる」という社会像の実現という観点から各人の遺伝子の適否が判断される)はずです。ここで重要なのは、デスティニープランを採用したからといってユートピア訪れないとはかぎらないということではなく、デスティニープランを採用したからといってユートピア訪れるとはかぎらないということです(そして、訪れなかった場合の弊害がむしろ甚大になる蓋然性が高いと思われます。たとえば、ファウンデーションでは、デスティニープランに反対する者は殺され、また、賛成する者も核攻撃によって「役割」にしたがって(?)殺されています。「役割にしたがって生きる」ということは「役割にしたがって死ぬ」ということでもあります。そして、それは定義によって「幸福」なのです)。そのうえで、目指すべき社会像の設定自体は、デスティニープランとは別の方法によって決めざるを得ないということになりますが、まさかジャンケンで決めるということにはならないと思います。ここは、純粋法学が根本規範 (Grundnorm) の内容を空白としたために、かえってナチズムの台頭を許したことが思い起こされます。

*14:アコードはデスティニープランの管理者として想定されていますが、この「管理者」がシステム運用保守者(地位としては生体CPUと同じではないのか?)のことなのか、支配者すなわち根本規範の制定改廃権者のことなのかは不明です。後者であるとすれば、誰が統治すべきかという政治哲学上の問題(ポパー前掲18頁)に対する、もっとも賢い者が統治すべき(賢人支配)という解答の変種ということになります(同55頁以下。しかし、政治哲学上、より重要な問題は、誰が支配者であるかというよりも、不幸にも悪い者または無能な者が支配者になってしまった場合に、悪い支配者または無能な支配者の権力を抑制し、または流血なく解職するにはどうすればよいかであると考えられます(同19頁以下))。

*15:デスティニープランの要は、知の権威としての遺伝子工学と、暴力の制度化としての軍隊・警察であると解されます。

*16:戦争の根絶という目的に対して、デスティニープランは手段としての適合性がそもそもないということです。「戦争」という語の多義性を前提として、デュランダルがどの程度まで暴力を根絶しようとしていたのかは定かではありません。しかし、制度の維持に必要な限度の武力・警察力の保持、威嚇、行使は想定されていたはずです。しかも、制度の導入自体が任意ではないので、維持だけでなく導入においても暴力が必要となります。ただし、暴力の必要性はべつにデスティニープランに特有のものではないと言われれば、それはその通りです。

*17:その他の論点として、遺伝子という脱却不可能な特徴に基づく差異的な取り扱いは規範的に許されるかなど。

*18:ファウンデーションと対比することで考えたことですが、デュランダル自身が幸福→戦争根絶という理路をどこまで信じていたか怪しく思えてきます。ひょっとすると、デュランダルはクルーゼがやったのと同じことを上品にやっていただけなのではないかという気もしてきます。すなわち、タリアと結婚できなかった。しかし、遺伝子的にしかたない。人類のため。むしろ、これを受け入れることが私個人の「幸福」でもある。ところで、「幸福」なら誰も争わなくて済む。それなら、私と同じように皆が「幸福」になれば、戦争はなくなるはず(でなければ許せない)という壮大なイヤミではないでしょうか。それを真に受けた(真に受けざるを得なかった)アコードはいい面の皮ということになります。しかし、この注は穿ちすぎかもしれません。

*19:ポパー前掲2上209頁。

*20:遺伝子工学という科学的衣装をまとった、神なき神学と解してよいと思います。「PHASE-44 二人のラクス」で、マリューも「運命が王なのよ。遺伝子が。彼は神官かしらね」と言っています。

心理学主義的社会(観)

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(矢立肇富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2004年)のネタバレを含みます。


1. はじめに*1
機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、一つの特徴的な社会観(世界観というより)が表れています。そこで、以下では、作中人物の一人であるデュランダルが提起した二つの問いを検討する形で、その社会観を浮かび上がらせます。

 

2. デュランダルの戦争原因論*2
一つ目の問いは、作中において「なぜ戦争はこうまでなくならないのか」です。

戦争*3は、自然現象とは異なり、直接的には人間の行為によって引き起こされるものです。しかし、「戦争はいやだと、いつの時代も人は叫び続けてい」るとされています。すなわち、たいていの人間は戦争したくないということです。にもかかわらず、現に戦争は起きています。

そこで、自分達ではない誰か一部の人間が戦争をしたいと思っているから戦争はなくならないのだと考えたくなります。
シンは、「いつの時代も身勝手で馬鹿な連中がいて……ブルーコスモス大西洋連邦みたいに」と答えています。また、デュランダル自身は、「あれは敵だ」、「人類の歴史には、ずっとそう人々に叫び、つねに産業として戦争を考え、作ってきた者達がいるのだよ。自分達の利益のためにね」と答えています。
シンの答えは心理学主義、デュランダルの答えは陰謀論と呼ばれるものです。これら二つの答えは、戦争は人間の意図(たとえば憎悪、狂気などの心理、陰謀)の結果であると説明する点で共通しています*4*5

しかし、心理学主義、陰謀論に対しては、一部の人間の意図がなぜたやすく実現してしまうのかという疑問があります。
たいていの人間が戦争を望んでいないのに戦争が起きるということは、少なくとも戦争に関するかぎりでは人間の意図と結果とがたいてい食い違うということです。すなわち、一部の人間の意図さえめったに実現しないということです。つまり、任意の戦争について、仮に陰謀が存在していたとしても、当該戦争が当該陰謀の結果である蓋然性はきわめて低いということになります。
にもかかわらず、一部の人間が例外であり得るのはなぜか、少なくともその機序(メカニズム)を説明する必要があります*6

 

3. デュランダルの戦争根絶論*7
心理学主義、陰謀論を前提として、デュランダルが提起した二つ目の問いは、戦争を「もう二度と繰り返さない」ためには、どうすればよいのかです。

デュランダルは、戦争の原因である陰謀(ロゴス)と心理(「無知と欲望」)のうち、前者については「ようやくそれを滅ぼすことができた」とする一方で、後者についてはこれを克服するために、遺伝子工学に基づきデスティニー・プランと称する一種のユートピア主義*8的制度を提唱します。

まとめれば、以下の通りです。
①「誰もが皆幸福に生きられる世界になれば、もう二度と戦争など起きはしない」*9
②「幸福に生き」るとは、「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」ことである*10
③ 「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」るとは、「資質のすべて、性格、知能、才能、また重篤な疾病原因の有無の情報」を知り、それにしたがって生きることである。
④この制度の妥当性は遺伝子工学によって、実効性は暴力によって担保される*11

しかし、①は因果関係が不明です。②は幸福の名目的再定義です。仮に①、②を肯定するとしても、③遺伝子は各人の社会的な役割を一義的に導き出すことはできません。なぜなら、適応すべき環境は一義的ではないところ、各人の資質に対応した社会的な役割を用意できるかは別の問題だからです。また、④全世界を実験場とする全体的かつ急進的な計画であるため、「かならず反発を生」むとすれば、やはり戦争は不可避です。

したがって、デスティニー・プランは、少なくとも戦争根絶のための政策としては不適切であったと解されます。

 

4. まとめ
陰謀論の淵源は、古代ギリシャホメロス的運命論にあるとされています*12。すなわち、ホメロスによれば、世界で起こるすべての出来事の原因は、オリンポスの神々の陰謀です。陰謀論では、「人間」が「神々」に取って代わっただけです。
また、陰謀論を前提とするデスティニー・プランでは、「遺伝子」が「人間」に取って代わっただけです。その結果、教条的という意味では運命論的です*13が、社会政策としてはむしろ場当たり的になってしまったのではないかと思われます。

もっとも、作品世界では、デスティニー・プランが戦争根絶論として拒否されても、戦争原因論としての心理学主義が拒否されているようには見えません。
しかも、単に社会観であるにとどまらず、実際にこの作品の社会が心理学主義的にできている疑いがあります*14。そこで、このような社会を心理学主義的社会と称することができると思います。

*1:本稿は、2005年頃に書いたもののどこにも発表することなく放置したままになっていた文章に手を加えたものです。最近、再放送していたので、これを機に、アップすることにしました。

*2:以下、カギカッコ内は一部を除いて「PHASE-19 見えない真実」から引用。

*3:「戦争」という語は多義的です。以下ではとくに区別しませんが、手段としての武力行使を意味する場合もあれば、その結果としての戦争状態を意味する場合もあります。

*4:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』2上、小河原誠訳、岩波文庫、2023年、197頁以下。したがって、陰謀論は心理学主義の変種と解することができます。

*5:「PHASE-48 新世界へ」でも、デュランダルは「有史以来、人類の歴史から戦争のなくならぬわけ」は、「一つには間違いなくロゴスの存在」(陰謀)であるとする一方で、「我々自身の無知と欲望」(心理)であるとしています。

*6:陰謀論批判は、陰謀があったとしても、めったに成功しないから陰謀論は一般的な説明としては適切でないとしているだけで、陰謀は存在しないとか陰謀は成功しないとかしているわけではありません。デュランダルによれば、現にこの戦争はロゴスという陰謀家によって仕組まれたものであり、およそすべての戦争がそうであるとされています。作中で陰謀が成功しやすい理由の一つは、おそらく社会関係の単純性ではないでしょうか。すなわち、特定の一個人(たとえばブルーコスモス盟主、ザフト最高評議会議長など)の意図が即座に結果として実現するような、効率的な(=短絡的な)制度、伝統、慣習が確立されており、その結果、この作品の社会(世界というより)は、人間の気まぐれ的な意図に対してきわめて敏感に反応するのではないかと思われます。

*7:以下、一部を除いて、カギカッコ内は「PHASE-48 新世界へ」から引用。

*8:「PHASE-48 新世界へ」というサブタイトルは、オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』を想起させます。

*9:「PHASE-36 アスラン脱走」。

*10:同上。

*11:デスティニー・プランの要は、遺伝子工学という知の権威と、暴力の制度化としての軍隊であると解されます。

*12:ポパー前掲209頁。

*13:遺伝子工学という科学的衣装をまとった、神なき神学と解してよいと思います。

*14:視聴者が生きているこの世界とは異なる世界での出来事である(仮に視聴者が生きているこの世界と地続きの未来の世界であるとしても)のはたしかですが、これはあくまで作品世界そのものというよりは、作品世界の中にある一社会の問題です。作品世界が作中人物の意図通りに変化するようにできているか、また、それを超えて作品世界が作品の作り手の意図通りに変化するようにできているかについては、言及していません。

バルトフェルド問題

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED』「PHASE-21 砂塵の果て」(矢立肇富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2002年)のネタバレを含みます。

 

1. 問題の所在*1
タルパティアの戦闘において、「勝敗は決した」にもかかわらず、バルトフェルドは撤退せずに戦い続けています。この理由について、バルトフェルド自身は、「戦うしかなかろう、互いに敵であるかぎり。どちらかが滅びるまでな」と答えています*2。すなわち、バルトフェルドが撤退せずに戦い続けたのは、戦争という状況の必然的な結果であるということです(状況必然説)*3

しかし、この状況必然説には難点があります。
そもそも、この説の根拠である「戦うしかなかろう、互いに敵であるかぎり。どちらかが滅びるまでな」(以下、「敵を滅ぼすしかない」と省略)というテーゼ*4は、キラとの会話の中で、「どうなったらこの戦争は終わるのか」という問いに対する一つの答えとして登場したものです*5。戦争には他に「明確な終わりのルールはない」というのがその根拠でした。

敷衍すれば、以下の通りです。たいていの戦争では、「敵である者をすべて滅ぼ」さなくても適当な落とし所がある。しかし、落とし所のない場合もあり得る。その場合、「戦争は終わった」と明確に言えるのは、「敵である者をすべて滅ぼし」たときだけである。この一般論を前提として、このプラントと地球連合との戦争は、まさにそういう戦争である。したがって、この戦争を終わらせるには、「敵を滅ぼすしかない」。

しかし、仮にプラントと地球連合との戦争を終わらせるためには「敵を滅ぼすしかない」としても、バルトフェルド隊とアークエンジェルとの戦闘を終わらせるためにも「敵を滅ぼすしかな」かったということには必ずしもなりません。当該戦争と当該戦闘との同型性、すなわち、タルパティアの戦闘において「敵を滅ぼ」さずに済む落とし所がなかったという事実が必要となります。
ところが、タルパティアの戦闘では、撤退するという落とし所がありました。したがって、この戦闘を終わらせるには「敵を滅ぼすしかな」かったという状況必然説は、誤りであると解されます。

そこで、なぜバルトフェルドは撤退せずに戦い続けたのかが改めて問題となります。

 

2. 問題の性質
この問題は、「敵を滅ぼす」ことがプラントと地球連合との戦争を終わらせるのに実践的に有効かを問うているのではありません。また、「敵を滅ぼす」ことが道徳的に善いのかを問うているのでもありません。この問題が問うているのは、バルトフェルドの行為の理解可能性です。
すなわち、私達は理解できない行為をする人のことをしばしば狂人とみなしますが、バルトフェルドはこの意味での狂人なのではないかというのがこの問題で問われていることです。

バルトフェルドの行為は一見して不合理です。しかし、行為の合理性を評価する視点として、普通人のものと本人のものとを用意すれば、不合理な行為はさらに二つに分かれます。
一つは、普通人の視点からは理解不可能でも、本人の視点からは理解可能なものです(適度に不合理な行為)。もう一つは、普通人の視点からはもちろん、本人の視点からも理解不可能なものです(度を超して不合理な行為)。
したがって、普通人の視点から不合理の疑いがある行為であっても、本人の視点から整合的な説明を見出すことができれば、人格を回復することができます。

 

3. いくつかの仮説*6
①説は、この戦争全体の観点から見てもキラの戦力が桁違いであることから、後顧の憂いを絶つために命懸けでこれを削減しようとしたからというものです(戦力削減説)。
これは一応、客観的な状況に適合した解釈であると思われます。

②説は、客観的に「敵を滅ぼすしかない」状況ではなかったのに、主観的にそう誤認したからというものです(状況誤認説)*7
しかし、バルトフェルド自身が「勝敗は決した」と言っている*8ことから、この説は採り得ません。

③説は、状況は正しく認識していたが、この戦争を終わらせるには「敵を滅ぼすしかない」ならば、この戦争のどの戦闘においても「敵を滅ぼすしかない」と信じたからというものです(規範誤解説)。
しかし、バルトフェルド自身が部下に撤退命令を出している*9ことから、それほど頑迷ではなかったことがうかがえます。したがって、この説も採り得ません。

④説は、キラが気に入った*10ので、戦場の厳しさを身をもって教えようとしたからというものです(反面教師説)。

⑤説は、砂漠勤務で退屈していたところに、自分の実力を存分に発揮できそうな強敵としてキラが現れたので、この機に乗じて決闘しようとしたからというものです(決闘目的説)*11

以上の説のなかでは、④説か⑤説あたりが、バルトフェルドの人物をもっとも魅力的に説明できている気がします。
なお、④説および⑤説では、なぜバルトフェルドが「敵を滅ぼすしかない」とわざわざ言ったのかがさらに問題となります。④説では、まさしくそう言うことこそが本来の目的ということになります。これに対し、⑤説では、決闘という本来の目的を隠すための偽装(カムフラージュ)ということになります。

*1:本稿は、2004年頃に書いたもののどこにも発表することなく放置したままになっていた文章に手を加えたものです。最近、再放送していたので、これを機に、アップすることにしました。

*2:「PHASE-21 砂塵の果て」。

*3:作品世界中でも、戦争という状況の必然的な結果であると解されているふしがあります。たとえば、「PHASE-26 モーメント」および「PHASE-27 果てなき輪舞(ロンド)」の語り手(ナレーター)の解釈。

*4:埴谷雄高のいわゆる「やつは敵だ。敵を殺せ」を彷彿とさせます。

*5:「PHASE-19 宿敵の牙」。

*6:思いつくままに仮説をいくつか列挙しましたが、もちろんこれらに尽きるものではありません。

*7:②説以降は、状況の必然的な結果ではなく、バルトフェルドの心理に因るものであるという説です。

*8:「PHASE-21 砂塵の果て」。

*9:同上

*10:同上。アイシャは、「ああいう子、好きでしょうに」と言って、バルトフェルドがキラのことを気に入っていると考えています。

*11:後藤リウ『機動戦士ガンダムSEED②砂漠の虎』(矢立肇富野由悠季原作、角川スニーカー文庫電子書籍版2014年)は、⑤説に近いと解されます。たとえば、「バルトフェルドは退屈していた」、「彼を満足させるような相手がいないことが、彼のひそかな不満だったのだ」、「いつもは眠らせておくしかない自分の能力を、最大限まで引き出してくれそうな相手だった。あんな戦闘は経験したことがない。あんなに夢中になって打ち込めるものを、彼は今まで見いだしたことがなかった」(PHASE 02、電子書籍版ではページ数不明のため、本文を引用します)、「知りたい。本気になった自分がどれくらい戦えるのか」(PHASE 03)、「指示を一方的に告げたあと、ダコスタがわめくのにもかまわず、彼は通信を切った。かわいそうだが、彼らは彼らでやってもらうしかない。バルトフェルドは、本当に面白いものを見つけてしまったのだから」(PHASE 05)など。

原因において自由な行為説(仮)

以下の文章は、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(宮本幸裕監督、新房昭之総監督、シャフト制作、2013年)のネタバレを含みます。


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の解釈論を書き終えることができないまま、8年あまり経ってしまいました。
書き終えることができなかった原因は、自説を書く前提としてまず他説を書く予定だったところ、自分の採っていない他説*1を説得的に書くことができなかったからです。

できればそのうち続きを書きたいと思っていますが、とりあえず自説の結論を簡単に書いておきます。
ほむらが悪魔になったのはなぜかというと、最初からその予定だったからです。なぜ最初からその予定だったのかというと、ほむらが求めていたのは現世利益だったからです。では、なぜ今まで実行しなかったのかというと、まどかの言葉に縛られていたからです。そこで、まどかの新たな言質を得るために、キュゥべえの介入を奇貨として結界世界に入り、その目的を果たしたということです。

なお、結界世界に入る前のほむらと結界世界から出た後のほむらとは同一人格です(外ほむら)が、結界世界内のほむら(魔女のようになった後のほむらも含めて、内ほむら)はそれらとは別の人格であると思われます(結界が消滅すると同時に内ほむらの人格は実は消滅しており、外ほむらとは人格が連続していないという意味です。ほむらの悪魔化が唐突に見えるのはそのためと解することになります。また、まどかの言質を得た後の結界世界内での出来事は、外ほむらにとってはそれほど重要ではなかった可能性があります)。

この解釈は、ほむらが別人格の自分(?)をあたかも道具として利用しているところから、道具理論、または原因において自由な行為説などとひとまず仮称しておきます*2

*1:ここでいう他説とは、ほむらの悪魔化がキルケゴール的な段階的絶望によるものという説です。この説はわりと一般的な解釈ではないかと思います。

*2:本来、原因において自由な行為 (actio libera in causa) とは、刑法学上の概念で、狭義には、「実行行為が、行為者自身の責任能力を欠いた状態、すなわち、心神喪失状態を利用して行われたとみられる場合」のことです(大塚仁『刑法概説(総論)』有斐閣、第3版増補版、2005年、159頁)。その可罰生を肯定する理論構成にはいくつか考えられますが、本文の「道具として利用」という考え方は間接正犯類似構成といわれるものです(もっとも、ほむらは責任能力をなくしているというより、記憶をなくしているだけですが)。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(4)のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(2013年、シャフト)



(2)[新編](イ)(つづき)
(b)(結界世界の)ほむらは、なぜ救済を拒んだのか(上)
(結界世界の)ほむらは、自分が「魔女」だという「真相にたどり着」きました。
しかも、(現実世界の)自分が「魔女」になったのは、「まどかにモテない」という現実から逃避した結果だということまで、「思い出し」ています*1
では、この状況で、(結界世界の)ほむらは何ができるでしょうか。

まず、結界世界における「充実した魔法少女ライフ」をもう一度(もうn度?)「やり直」すことが考えられます。
しかし、今回ばかりは「やり直」せそうにありません。
なぜなら、「やり直」すためには、自分の記憶と他人の記憶とを改めて操作しなければなりません。
ところが、今回のほむらは、どちらも操作できないからです。

すなわち、このときのほむらは、もはや自分をだませなくなっています。
なぜなら、「魔法少女のお茶会」後のほむらは、初めての賢者タイムに入っていました。
そのうえで、その賢者タイムの自分をさらに見つめなおしている(大賢者タイム?)からです。

しかも、インキュベーターは、今までのほむらの「はしゃぎっぷり」を観測しています。
これは、ほむらにしてみれば、まるで、全国130館の劇場で、自作の同人誌を晒し上げられるような仕打ちでしょう。
だから、インキュベーターの記憶はぜひとも消したいところです。
しかし、インキュベーターは、結界外部の存在です。
だから、ほむらの記憶操作は及びません。
また、結界内部にいる(はずな)のに、なぜか記憶を操作されていなかったさやかの存在も、不気味に思われたでしょう。


「やり直」すことができない以上、結界の世界を維持していた、まどかとほむらとの「均衡も崩れ」ます。
次にこの状況で、ほむらにできるのは、「まどかに助けを求める」か、「求め」ないかのどちらかです。

一方で、ほむらが「まどかに助けを求め」れば、まどかは「自分が何者なのか」「思い出す」でしょう。
そして、インキュベーターいわく「待ち望んでいた存在との再会の約束を果たす」ことができます。
問題は、干渉遮断フィールドの中だと、インキュベーターが円環の理を観測できてしまうということです。
それは、インキュベーターがやがて「まどかを支配する」端緒になり得ます。

他方で、ほむらが「まどかに助けを求め」なければ、まどかは「神であることを忘れ」たままです。
だから、「まどかの秘密が暴かれ」ずに済みます。
その代わり、ほむらは完全な「魔女にな」り、「永遠の時を呪いとともに過ごす」ことになるでしょう。
しかも、「魔女にな」る前に自殺することも難しそうです。
なぜなら、自殺するには、ソウルジェムを物理的に砕かなければなりません。
ところが、ここは、ほむらの「ソウルジェムの中にある世界」だからです。

つづく

*1:これは、問い(a)に対する現実逃避説からの帰結のように見えます。しかし、実は、現実逃避説が真だということを、必ずしも意味していません。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(4)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(3)のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語/[後編]永遠の物語」(2012年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(2013年、シャフト)


(2)[新編](つづき)
(イ)魔法少女が魔女になるのは、(広い意味で)絶望したからです。
そして、絶望は希望の裏返しです。
ということは、遡って、(a)ほむらは自らの希望を取り巻くこの特異な状況を、絶望的なものだと解釈したということになります。
しかも、そのときに生み出されたほむらの絶望は、その後、彼女が(b)(結界の中で)完全な魔女になったこと、(c)(結界から出た後、)「悪魔」になったことにも、強く関係しています。

そこで、以下では、ほむらは何に絶望して魔女になったのかという問いを、
(a)(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのか(狭義)
(b)(結界世界の)ほむらは、なぜ救済を拒絶して完全な魔女になったのか(広義)
(c)(現実世界の)ほむらは、なぜ救済を拒絶して「悪魔」になったのか(最広義)
の三つに分けて検討します。


(a)(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのか
ほむらがこの特異な状況を解釈するうえでもっとも留意しなければならないのは、これが「まどかの望んだ結末」だということです。
すなわち、誰にだまされたのでも強いられたのでもなく、すべての事情を斟酌したうえでまどかがした決断だということです(ここにおいて、「キュゥべえにだまされる前の馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな」と願った時のまどかの意志さえも、乗り越えられています)。
そのうえで、「信じて。ぜったいに今日までのほむらちゃんを無駄にしたりしないから」と言われたからには、まどかの決断を尊重せざるを得ません。
しかし、一方で「概念にな」るというまどかの決断を尊重すると、他方で「まどかを守りたい」、「まどかにモテたい」というほむらの希望が叶いません。
ここに、いわゆる認知的不協和*1が生じています。

そこで、この不協和状態を解消するために、まどかが「概念にな」ったことの価値を高めながら、それに合わせて「まどかを守る」こと、「まどかにモテる」ことの意味を弱めることが考えられます。
すると、たしかに、まどかが「概念にな」ったことについては、「死ぬなんて生易しいものじゃない」(マミ)、「死ぬよりも、もっとひどい」(ほむら)という見方もあります。
しかし、無駄に死ぬよりはましな気がします。
まして、魔女になるよりははるかにいいでしょう。
なぜなら、まどかの意志に照らせば、死ぬことや魔女になることは不本意です。
これに対し、「概念にな」ることは、その結末に齟齬がないからです。
だとすれば、ほむらは「まどか(の意志)を守」ったと考えることもできます。
だからこそ、改変後の世界でそれを「覚えているのは私だけ」、つまり、まどかにとってほむらは特別な存在(「最高の友達」)になることができたのです。

むしろ、まどかの意(遺?)志を受け継ぎ、まどか「が守ろうとした」この世界で「戦い続ける」ことこそ、自分に与えられた崇高な使命である(苦難の意味転換)。
そして、いつか力尽きて「円環の理に導かれ」れば、「あの懐かしい笑顔と再び巡り会える」(来世での幸福)。
戦いの中で、いつもまどかが自分のそばで見守っていてくれるのを感じる。
そう信じきることができれば、いわゆる苦難の神義論*2が完成します。

なお、魔女になることと死ぬこととを比べた場合は、魔女になるくらいなら死んだほうがましだというのが、魔法少女の一般的な考えだと思われます。
たとえば、「私、魔女にはなりたくない(だから、殺してほしい)」と願ったまどかと、それを聞き入れたほむらがいます。
また、「ソウルジェムが魔女を生むなら、みんな死ぬしかない」というマミの考えも、具体的なあてはめはともかく価値判断としては同じです。


しかし、結局、ほむらはまどかによって強いられた解釈の転換を信じきることができませんでした。
そのきっかけは、「まどかを守」れなかった罪悪感だったかもしれません。
しかし、そうだとしても、「まどかにモテ」なかった孤独感の方が決定的だったと思われます。
「寂しいのに、悲しいのに、この気持ちを誰にも分かってもらえない」
そもそも、ほむらには、一人ぼっちになるくらいなら「死んだ方がいい」という価値観があります。
だから、まどかの真意はどうあれ、口先だけで「最高の友達」と持ち上げられたくらいでは、とうてい納得できないのです。

たしかに、「円環の理に導かれ」れば、まどかの「あの懐かしい笑顔と再び巡り会うこと」ができます。
しかし、ほむらが求めているのは、あくまで現世利益です。
すなわち、人間としてのまどかと普通の中学生らしい日常を過ごしたかったのです。
「いくつもの時間で」「何度も泣いて、傷だらけになりながら、それでも」まどかとの日常「のためにがんばっ」ってきたのに、来世(任意の並行世界)まがいのあの世(メタ並行世界)に召されてしまっては、元も子もありません。
「そんな幸福は、求めてない」*3

とはいえ、いまさら、「概念にな」ったまどかを元に戻せるわけではありません。
というより、そもそも、まどかの決断を貶める勇気はありません。
もはや、ほむらは、積極的には生きることも、死ぬこともできないのです。
できることといえば、理想のまどかとのリア充な日常を夢想して、自分を慰めるくらいです。
しかし、これは、「あの懐かしい笑顔と再び巡り会うことを夢見」るのとは根本的に違います。
なぜなら、ほむらが見ているのは、いつか現実に叶う可能性のある夢ではありません。
もはや現実には叶う可能性のない夢だからです。
これは、何を意味するのでしょうか。

現実に叶う可能性があるなら、それは希望と呼んでも差し支えないでしょう。
しかし、もはや現実に叶う可能性のない夢を見ることは、程度の差はあれ、現実に絶望しているということです。
つまり、ここにいたって、ほむらは、(時間を遡行することによって現実逃避するのではなく、)夢を見ることによって現実逃避していたということになります。
そして、だましだましに、しかし着実に絶望を育みつづけ、ついにソウルジェムを「限界まで濁りき」らせてしまいました。
そこをインキュベーターによって、現実世界の円環の理から物理的に隔離されたため、ほむらは(不完全な)魔女として結界世界を作るに至ったのだと思われます(現実逃避説)*4

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(5)につづく

*1:レオン・フェスティンガーによる概念です。

*2:マックス・ウェーバーによる概念です。

*3:ただし、ほむらは、この台詞を「まどかを守る」文脈で使っています。

*4:これが、(現実世界の)ほむらは、なぜ結界を作るに至ったのかという問いに対する、一つの答えです。ひとまず、この解釈を前提して、問い(b)、(c)それぞれに対する答えを考えます。その後、問い(a)に対する別の答えを、異説として補足しようと考えています。これは要するに、現実逃避説では説明が不十分な点があるということです。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(3)

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(2)のつづき

下記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。

・「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語/[後編]永遠の物語」(2012年、シャフト)
・「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」(2013年、シャフト)
・「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(2013年、SILVER LINK.谷川ニコ原作)


(2)[新編](つづき)
では、ほむらは、(ア)何を希望して魔法少女になり、(イ)何に絶望して魔女になったのでしょうか。

(ア)(a)もちろん、ほむらの希望は「まどかを守る」ことです。
しかし、後から見れば、この希望の内容は一義的ではありませんでした。
すなわち、いったい何をどうすれば「まどかを守」ったことになるのかが、十分に詰められていなかったのです。

思うに、ほむらは、まどかが死ぬか魔女になるたびに「やり直し」ています。
ということは、これらの場合は「まどかを守」ったことにはならないということです。
言い換えれば、「まどかを守」ったというためには、少なくとも「まどかが死なない」こと、および、「まどかが魔女にならない」ことが必要だということです。
そのためには、少なくとも「まどかが魔法少女にならない」ことが必要です。
そのためのためには、「まどか抜きでワルプルギスの夜を倒す」ことが必要です。
もちろん、まどかとインキュベーターとの接触を防ぐことができれば、それに越したことはありません。
これが、「まどかを守る」うえで、ほむらが想定していた因果関係(とそれに基づく目的・手段関係)でしょう。

ところが、([前編/後編]における並行世界の)まどかが(「まどかを守る」ために)採った手段は、ほむらの想定を超えるものでした。
すなわち、まどかは魔法少女になったにもかかわらず、魔女になることも死ぬこともなかったのです。
その代わり、結果として「一つ上の領域にシフトして、ただの概念になり果ててしま」いました。
この場合、ほむらは「まどかを守」ったことになるのでしょうか。

(b)ところで、ほむらの希望は、単に「まどかを守る」ことではありません。
「まどかを守る」ことに因って、「かっこよくな」った自分が「彼女との出会いをやり直」すことです。
すなわち、まどかと対等(かそれ以上)の立場で、改めて友達になりたい、いっしょにいたい、イチャコラしたい、要するに、「まどかにモテたい」ということなのです。
「まどかを守れば自然とまどかにモテると思っていた」*1

ところが、まどかが「概念になり果て」たことに因って、ほむらはまどかのいない世界に一人取り残されてしまいました。
少なくとも、普通の意味でまどかがそばに「いる」わけではありません。
そこで、ほむらにとって問題の核心は、仮にこれで「まどかを守」ったことになるのだとしたら、なぜ自分は今も孤独なのか、ということです。

はたして、ほむらはこの特異な状況をどう解釈すればいいのでしょうか。

私がまどかにモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(4)につづく

*1:私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(2013年、SILVER LINK.)ストーリー紹介「『女子高生』になれば自然とモテると思っていた」