遺伝子還元主義的運命論

以下の文章は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(矢立肇富野由悠季原作、福田己津央監督、サンライズ制作、2004年)、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(同、2024年)のネタバレを含みます。


1. はじめに
機動戦士ガンダムSEED DESTINY』、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』では、戦争が主題となっています。そこで、以下では、作中人物の一人であるデュランダルが戦争という社会現象について提起した二つの問いを検討します*1


2. デュランダルの戦争原因論*2
一つ目の問いは、作中において「なぜ戦争はこうまでなくならないのか」です。

戦争*3は、自然現象とは異なり、直接的には人間の行為によって引き起こされるものです。しかし、「戦争はいやだと、いつの時代も人は叫び続けてい」るとされています。すなわち、たいていの人間は戦争したくないということです。にもかかわらず、現に作中では戦争が起きています。

そこで、自分達ではない誰か一部の人間が戦争をしたいと思っているから戦争はなくならないのだと考えたくなります。
シンは、「いつの時代も身勝手で馬鹿な連中がいて……ブルーコスモス大西洋連邦みたいに」と答えています。また、デュランダル自身は、「あれは敵だ」、「人類の歴史には、ずっとそう人々に叫び、つねに産業として戦争を考え、作ってきた者達がいるのだよ。自分達の利益のためにね」と答えています。
シンの答えは心理学主義デュランダルの答えは陰謀論と呼ばれるものです。これら二つの答えは、戦争は人間の意図(たとえば憎悪、狂気などの心理、陰謀)の結果であると説明する点で共通しています*4*5

しかし、心理学主義、陰謀論に対しては、一部の人間の意図がなぜたやすく実現してしまうのかという疑問があります。
たいていの人間が戦争を望んでいないのに戦争が起きるということは、少なくとも戦争に関するかぎりでは人間の意図と結果とがたいてい食い違うということです。すなわち、一部の人間の意図さえめったに実現しないということです。つまり、任意の戦争について、仮に陰謀が存在していたとしても、当該戦争が当該陰謀の結果である蓋然性はきわめて低いということになります。
にもかかわらず、一部の人間が例外であり得るのはなぜか、少なくともその機序(メカニズム)を説明する必要があります*6


3. デュランダルの戦争根絶論*7
心理学主義、陰謀論を前提として、デュランダルが提起した二つ目の問いは、戦争を「もう二度と繰り返さない」ためにはどうすればよいのかです。

デュランダルは、戦争の原因である陰謀(ロゴス)と心理(「無知と欲望」)のうち、前者については「ようやくそれを滅ぼすことができた」とする一方で、後者についてはこれを克服するために、デスティニープランと称する一種のユートピア主義*8的制度を提唱します。

まとめれば、以下の通りです。
①「誰もが皆幸福に生きられる世界になれば、もう二度と戦争など起きはしない」*9
 (a)「幸福に生き」るとは、「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」ことである*10
 (b)「自分を知り、精一杯できることをして役立ち、満ち足りて生きる」るとは、「資質のすべて、性格、知能、才能、また重篤な疾病原因の有無の情報」を知り、それにしたがって生きることである。
②この制度の妥当性は遺伝子工学によって保証される。

しかし、①は因果関係が不明です((a) および (b) は「幸福」の名目的再定義です)*11。また、仮に①を肯定するとしても、遺伝子という要素だけで各人の社会的役割を一義的に導き出すことは、事実上困難であるというだけでなく、原理上不可能です。なぜなら、適応すべき環境自体が一定ではなく、遺伝子以外のさまざまな社会的要因によって変化するからです*12*13*14
また、②全世界を実験場とする全体的かつ急進的な計画であるため、「かならず反発を生」むのであれば、この制度の実効性を保証するのは究極的には暴力しかありません*15。やはり戦争が不可避となるのではないでしょうか*16

したがって、デスティニープランは、少なくとも戦争根絶のための政策としては不適切であったと解されます*17*18


4. まとめ
陰謀論の淵源は、古代ギリシャホメロス的運命論にあるとされています*19。すなわち、ホメロスによれば、世界で起こるすべての出来事の原因は、オリンポスの神々の陰謀とされています。陰謀論では、「一部の人間」が「オリンポスの神々」に取って代わっているのです。
そのうえで、デスティニープランは、社会現象の遺伝子還元主義です。すなわち、遺伝子を初期条件として結果としての社会問題を解決する政策と解されます。そこでは、「遺伝子」が「オリンポスの神々」に取って代わっいるのです。
その結果、教条的という意味では運命論的です*20が、社会政策としては社会現象を適切に分析することができず場当たり的になってしまうのではないかと思われます。

*1:本稿は、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の鑑賞前に書いた「心理学主義的社会(観)」

https://truth-in-anime.hatenablog.com/entry/2024/01/24/192513

を鑑賞後に大幅に加除修正したものです。なお、心理学主義的社会云々については生煮えであるため削除し、デュランダルのとなえる戦争の原因とその対策(とくに後者)とに絞って書くことにしました。

*2:以下、鉤括弧内は一部を除いて「PHASE-19 見えない真実」から引用。

*3:「戦争」という語は多義的です。紛争解決手段としての武力行使を意味する場合もあれば、その結果としての戦争状態を意味する場合もあります。

*4:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』2上、小河原誠訳、岩波文庫、2023年、197頁以下。したがって、陰謀論は心理学主義の変種と解することができます。

*5:「PHASE-48 新世界へ」でも、デュランダルは「有史以来、人類の歴史から戦争のなくならぬわけ」は、「一つには間違いなくロゴスの存在」(陰謀)であるとする一方で、「我々自身の無知と欲望」(心理)であるとしています。

*6:陰謀論批判は、陰謀は存在したとしてもめったに成功しない(から陰謀論は一般的な説明としては適切でない)としているだけで、陰謀はいっさい存在し得ないとか陰謀はいっさい成功し得ないとか批判しているわけではありませんデュランダルによれば、現にこの戦争はロゴスという陰謀家によって仕組まれたものであり、およそすべての戦争がそうであるとされています。もしそれが本当であるとすれば、作中で陰謀が成功しやすい理由の一つは、おそらく社会関係の単純性ではないでしょうか。すなわち、特定の一個人(たとえばブルーコスモス盟主、ザフト最高評議会議長など)の意図が即座に結果として実現するような、効率的な(=短絡的な)制度、伝統、慣習が確立されており、その結果、この作品の社会(世界というより)は、一部の人間の意図に対してきわめて敏感に反応するのではないかと思われます(しかし、これはすでに心理学主義な見方ではなく、制度主義的な見方になっています。なお、心理学主義か制度主義かという論点とは別に、個人を超えたたとえば「人類」という集団に独自の意志を認めるかという論点もあります)。

*7:以下、一部を除いて、鉤括弧内は「PHASE-48 新世界へ」から引用。

*8:「PHASE-48 新世界へ」というサブタイトルは、オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』を想起させます。なお、ユートピア主義的社会工学については、ポパー前掲1下95頁以下。

*9:「PHASE-36 アスラン脱走」。

*10:同上

*11:デスティニープランが分かりにくい理由の一つは、このプランがデュランダルの幸福観と結びついており、なおかつその幸福観が狭隘であることです。「PHASE-36 アスラン脱走」で、デュランダルはキラを題材として自らの幸福観を披露しています。しかし、幸福の内容は人によって異なると解されます(この点について、たとえば日本国憲法13条の文言が「幸福権」ではなく、「幸福追求……権」(元ネタのアメリカ独立宣言では、"the pursuit of happiness") となっているのは、人によって何が幸福であるかは異なるからであるという旨の文章を読んだ覚えがあるのですが、出典を失念していまいました。佐藤幸治か団藤重光だったような気もします。文献を特定したら補足します)。

*12:したがって、遺伝子的に適性があったのに、環境(という初期条件)の変化によって適性がなくなることもあり得ます。そもそも、環境の変化がなくても、遺伝子的に適性があることと、実際に適性があることとは別の問題です。遺伝子という要素だけで社会現象を説明・予測しようとする試みは、群盲象をなでるということになります。

*13:実はデスティニープランだけでは、目指すべき社会像は不明のままです。たとえば、デュランダルは「人類の防衛」、「戦争の根絶」が実現されるような社会像を念頭に置いていたように見えます(もちろん「人類の防衛」、「戦争の根絶」だけでは抽象的なスローガンにすぎないので、改めて「人類」、「防衛」、「戦争」、「根絶」の意味などが問題となりますが)。しかし、たとえば富を集中することも再分配することも原理的には可能です。また、「重篤な疾病原因」のある者を保護することも見捨てることも原理的には可能です。さらに、ファウンデーションはデスティニープランを採る一方で、帝政を採っています。このことから、デスティニープラン自体は世襲を原理上排除するわけではないということに気づかされます(あるいは、「人類の救済」を実現するために帝政が必要と判断されることも原理的にはあり得ます。ただし、ファウンデーションの帝政が実際に世襲を予定するものであったかどうかは不明です。また、デスティニープランは遺伝子の適性を考慮するため、それ自体が血統主義というわけではありません)。荒唐無稽ですが、たとえば「ネコをあがめること」が目指すべき社会像となった場合はどうでしょうか。おそらく、デスティニープランはネコをあがめるという社会像を実現するために最適化される(=「ネコをあがめる」という社会像の実現という観点から各人の遺伝子の適否が判断される)はずです。ここで重要なのは、デスティニープランを採用したからといってユートピア訪れないとはかぎらないということではなく、デスティニープランを採用したからといってユートピア訪れるとはかぎらないということです(そして、訪れなかった場合の弊害がむしろ甚大になる蓋然性が高いと思われます。たとえば、ファウンデーションでは、デスティニープランに反対する者は殺され、また、賛成する者も核攻撃によって「役割」にしたがって(?)殺されています。「役割にしたがって生きる」ということは「役割にしたがって死ぬ」ということでもあります。そして、それは定義によって「幸福」なのです)。そのうえで、目指すべき社会像の設定自体は、デスティニープランとは別の方法によって決めざるを得ないということになりますが、まさかジャンケンで決めるということにはならないと思います。ここは、純粋法学が根本規範 (Grundnorm) の内容を空白としたために、かえってナチズムの台頭を許したことが思い起こされます。

*14:アコードはデスティニープランの管理者として想定されていますが、この「管理者」がシステム運用保守者(地位としては生体CPUと同じではないのか?)のことなのか、支配者すなわち根本規範の制定改廃権者のことなのかは不明です。後者であるとすれば、誰が統治すべきかという政治哲学上の問題(ポパー前掲18頁)に対する、もっとも賢い者が統治すべき(賢人支配)という解答の変種ということになります(同55頁以下。しかし、政治哲学上、より重要な問題は、誰が支配者であるかというよりも、不幸にも悪い者または無能な者が支配者になってしまった場合に、悪い支配者または無能な支配者の権力を抑制し、または流血なく解職するにはどうすればよいかであると考えられます(同19頁以下))。

*15:デスティニープランの要は、知の権威としての遺伝子工学と、暴力の制度化としての軍隊・警察であると解されます。

*16:戦争の根絶という目的に対して、デスティニープランは手段としての適合性がそもそもないということです。「戦争」という語の多義性を前提として、デュランダルがどの程度まで暴力を根絶しようとしていたのかは定かではありません。しかし、制度の維持に必要な限度の武力・警察力の保持、威嚇、行使は想定されていたはずです。しかも、制度の導入自体が任意ではないので、維持だけでなく導入においても暴力が必要となります。ただし、暴力の必要性はべつにデスティニープランに特有のものではないと言われれば、それはその通りです。

*17:その他の論点として、遺伝子という脱却不可能な特徴に基づく差異的な取り扱いは規範的に許されるかなど。

*18:ファウンデーションと対比することで考えたことですが、デュランダル自身が幸福→戦争根絶という理路をどこまで信じていたか怪しく思えてきます。ひょっとすると、デュランダルはクルーゼがやったのと同じことを上品にやっていただけなのではないかという気もしてきます。すなわち、タリアと結婚できなかった。しかし、遺伝子的にしかたない。人類のため。むしろ、これを受け入れることが私個人の「幸福」でもある。ところで、「幸福」なら誰も争わなくて済む。それなら、私と同じように皆が「幸福」になれば、戦争はなくなるはず(でなければ許せない)という壮大なイヤミではないでしょうか。それを真に受けた(真に受けざるを得なかった)アコードはいい面の皮ということになります。しかし、この注は穿ちすぎかもしれません。

*19:ポパー前掲2上209頁。

*20:遺伝子工学という科学的衣装をまとった、神なき神学と解してよいと思います。「PHASE-44 二人のラクス」で、マリューも「運命が王なのよ。遺伝子が。彼は神官かしらね」と言っています。