【ネタバレ】「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」を観て、以下の問いに答えよ。(配点 100)

【問題】
暁美ほむらが「悪魔」になったのはなぜか。暁美ほむらの心情に即して、100字以内で私見を述べよ。


【解答例】
鹿目まどかを救えなかった罪悪感と、その罰である魔獣との戦いに背を向け、キャッキャウフフな妄想に逃げ込んだ弱さを恥じる気持ちと、心の中を覗き見され、しかも同情されたいたたまれなさとを払拭したかったから。(100字)


【解説】
1. 設問の趣旨
設問は、暁美ほむらという登場人物によってなされた、ある行為の理由を問うものです。
すなわち、設問の前提として、インキュベーターの観測機械はすでに破壊されていました。
だから、円環の理を拒むべき状況の必然性はない(ように見えます)。
ということは、この結果は彼女の心理に因るものだと考えざるを得ません。
では、どんな心理が働いていたのでしょうか。
そこで、彼女の心理という観点から、彼女の行為を合理的に「説明」せよ、というのです。

注意すべきは、この設問が問うているのは、暁美ほむらの行為の物理的な可否(実現可能性)でも道徳的な善悪(非難可能性)でもなく、合理性、言い換えれば(説明時における)理解可能性だということです。
極端に言えば、私達は理解できない行為をする人のことをしばしば「狂人」と呼びますが、彼女はこの意味での狂人なのではないか、というのがここでの問題意識なのです。
「誰に分かるはずもないわ」という彼女自身の言葉に反して、彼女の行為は理解できるように解釈され、説明され「なければならない」のです。

そこで、行為の合理性を評価する視点として、普通人のものと本人のものとを用意すれば、不合理な行為はなお2種類に分けることができます。
一つは、普通人の視点からは理解不可能でも、本人の視点に立てば理解可能になるもの(適度に不合理な行為、疑似的に不合理な行為)です。
もう一つは、本人の視点に立っても理解不可能なままのもの(度を越して不合理な行為、正真正銘不合理な行為)です。

暁美ほむらの「悪魔」化を見た人の多くは、それを唐突だと感じたはずです。
しかも、見終わった後もなお、何が伏線だったのかいまいち分かりません。
なにより、彼女自身が説明も他人の理解も拒んでいます。
つまり、彼女の行為は普通人(この中には美樹さやかを含めてもいい)の視点からは一見理解不可能なのです。
いったい、「愛」とはつまりどういうことなのでしょうか。
そこで、さらに、本人の視点から整合的な説明を与えることができるかが焦点となるのです(こうなると、単なる「どんでん返し」というより、「リドル・ストーリー」の様相を呈してきます)。

なお、仮に本人の視点からも理解不可能な場合、言い換えれば、私達が暁美ほむらの行為に整合的な説明を与えることに失敗した場合、作品外に存在する作者をつい批判したくなるかもしれません。
なぜなら、私達は、この作品に作者(いわば神)が存在することを知っているからです(ところで、これは私達が生きるこの現実世界と大きく異なる点なのか否か。また、ノンフィクション作品はどうなのか)。

しかし、そうした批判が妥当かどうかは、問題の文脈によって決まります。
すなわち、その問題が「作品の出自」に興味を持っているのか、それとも、「作品の内容」に興味を持っているのかです。
つまり、作者と作品との関係は前者に属し、それはそれとして議論になり得ます。
しかし、それはここでの問題ではない、というだけのことです(どこまでを「作品」と捉えるのか、という先決問題はあります)。
本設問について言えば、その興味はもちろん作品の内容にあります。
しかし、それは単に、出題者(である私)がそちらにしか興味を持たなかったから、というだけのことにすぎないのです。


2. 各説の検討
以下、思いつくままにいくつか説明仮説を挙げますが、必ずしも網羅的ではありません。

(1) 脅威排除説
状況の必然性がないという設問の前提が間違っている。
鹿目まどか(円環の理)に対するインキュベーターの脅威は、将来的にはなお存在する。
それを完全に排除しなければならない。
そして、それができるのは暁美ほむらだけだったからである、とする説。


(2) 魔女化影響説
状況の必然性がないという設問の前提が間違っている。
たしかに、暁美ほむらは是非弁別能力または行動制御能力を欠く状態にあった。
しかしそれは、干渉遮断装置の中でとはいえ、魔女化した影響があったからである、とする説。


(3) 救済固執説(罪悪感克服説)
かつて鹿目まどかを救えなかった罪悪感のあまり、自分なりに「まどかを救う」ことに固執したからである、とする説。

結界の世界におけるまどかの告白(「誰とだってお別れなんてしたくない」)を機に、暁美ほむらの中で状況の再解釈が生じている(「それがあなたの、本当の気持ちなら……私、なんて馬鹿な間違いを……」)。
すなわち、まどかを「犠牲」にした(「これじゃ、死ぬよりも……もっとひどい……」)のはやはり間違いだった。
これは自分の罪である。
だとすれば、魔獣との戦いは、その罰である(「だから私は、戦い続ける」)。
にもかかわらず、まどかのいない世界に一人取り残された孤独(「寂しいのに、悲しいのに、この気持ちを誰にも分かってもらえない」)から、「魔獣と戦う使命に背を向け、ありえない世界に逃げ込んだ」。
あまつさえ、迂闊にもまどかをインキュベーターの脅威にさらした。
だとすれば、そんな自分はますます救われてはならない。
まどかに合わせる顔なんてない。
このまま結界の中で魔女として滅びるべきである(「きっとこの結界が私の死に場所になるでしょう」)。
それが自分への永遠の罰である。

ところが、当のまどかによって、それらの罪を償うもう一つの可能性が示される(ただし、まどかが明示したわけではなく、ほむらがその可能性に気付いてしまった。その証拠に、円環の理ありきでほむらを救おうとするまどかと、根本的にまどかを救おうとするほむらとの会話は噛み合っていない)。
「まどかを救う」絶好の機会が訪れた(「この時を待っていた」)。
今度こそ「どんな手を使ってでも」、「どんな姿に成り果てたとしても」、自分の手でまどかを救わなければならない。
「もうためらったりしない」。
それが新たな罪であることは自覚している(「どんな罪だって背負える」)ので、言葉の本来の意味での確信犯(ラートブルフ)だといえる。

その結果、ほむらは「人間としての鹿目まどか」の日常を取り戻すが、罰として「一人ぼっち」になる。
しかし、そんな「痛みさえ愛おしい」。
なぜなら、まどかを救ったのは他でもない自分だという満足感があるから。
ただし、「こんな姿」になってまでも、なおまどかに接触したがるところに、人間的な未練が垣間見える。


(4) 二次創作説(自意識誤想過剰防衛説)
心の中のキャッキャウフフな妄想を覗き見され、しかも同情されたいたたまれなさのあまり、目撃者の記憶を消したうえで一からやり直したくなったからである、とする説。

結界を作った魔女は自分だと気づいたのを機に、暁美ほむらの中で状況の再解釈が生じている。
すなわち、まどかのいない世界に一人取り残された孤独(「寂しいのに、悲しいのに、この気持ちを誰にも分かってもらえない」)から、心の中でひそかに思い描いてた「魔法少女まどか☆マギカ」の二次創作(戯曲)。
その中で、自分が「暁美ほむら」役を楽しそうに演じているところを、まじまじと観察されていた。
まるで、全国130館の劇場で、自作の同人誌を晒し上げられるような仕打ちである。

インキュベーターはまあいい(あいつら感情ないし)としても、巴マミ佐倉杏子に自分が作者だと気づかれるのは時間の問題である。
というより、美樹さやか、彼女は何もかも知っていた。
そのうえで、後で真実を知ったほむらが傷つかないように、さりげなくフォローまでしていた(「これって、そんなに悪いことなのかな。それを願った心は、裁かれなきゃいけないほど罪深いものなのかな」)。
邪推すれば、以前、ほむらがメタ視点から(主にまどかのために)説教した仕返しとも受け取れる。
これがかえって、ほむらの劣等感を刺激したおそれもある(自意識に対する侵害の誤想)。

あまつさえ、妄想にふけっている間にまどかをインキュベーターの脅威にさらした。
だとすれば、そんな自分はますます救われてはならない。
(オカズにしていた)まどかに合わせる顔なんてない。
このまま結界の中で魔女として滅びるべきである(「きっとこの結界が私の死に場所になるでしょう」)。
介錯人もいるし(「ここには巴マミ佐倉杏子もいる。彼女たちを信じる」)。
まさに「公開処刑」である。

ところが、当のまどかは「何があっても、ほむらちゃんはほむらちゃんだよ。私はぜったいに見捨てたりしない」。
はたしてほむらは、この言葉をどう受け取ったのだろうか。
同情されるより軽蔑されたほうが、まだ気持ちが楽だったのではないか。
「何があっても」、「ぜったいに見捨てたりしない」ということは、逆に言えば、やはり二次創作「を願った心は、裁かれなきゃいけないほど罪深いもの」だということなのか(自意識に対する侵害の誤想)。
だとすれば、もう徹底的に堕ちるところまで堕ちるしかない(「私が意気地なしだった」、「どんな姿に成り果てたとしても、きっと平気だわ」、「もうためらったりしない」、「痛みさえ愛おしい」)(自意識の過剰防衛)。

ここでこの作品が喜劇になり得ないのは、言い換えれば喜劇として解釈できないのは、ほむらが他人のそうした理解を拒絶しているからである(「誰に分かるはずもないわ」)。
つまり、ほむらの行為が普通人の視点から「理解」しにくいのは、(他人が理解するための)隙を見せる「可愛げ」がないからなのである(しかも、世界の創造者として、世界の「ジャンル」を非喜劇として規定してしまっている)。
たとえば、「いったいなんの権利があってこんな真似を」というさやかの問いに、ほむらは「今の私は魔なる者」だから悪いことして当然だという趣旨のことを答える。
しかし、これはまったく答えになっていない。
なぜなら、問題は、そもそもなぜその†魔なる者†になったのか、だからである。
これでは、「あなたのような常人には理解できない独自の使命がある」とうそぶくようなものだろう。
つまり、他人が理解しようと思っても、その理解を上回るためのメタ厨二設定(物理)で逃げ続けるのである(反証回避戦略)。

ほむらが本当の意味で救われるためには、ほむらの可愛げを引き出すツッコミ役が必要である。
この点において美樹さやかは、改変後の世界で、ほむらに対するツッコミ役になり得る人物ではないだろうか(なお、さやかの記憶がかろうじて残っていたのは、単なる偶然ではなく、ほむらがさやかの「理解」に反駁する必要があったからだとも思われる)。


(5) 単純欲情説(うれション説)
「あの懐かしい笑顔と再び巡り会う」ことができた嬉しさのあまり、なんかもう辛抱堪らんくなったからである、とする説。
陽気な破廉恥犯である。


3. まとめ
と、このように、「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」について書きたいことを、国語の出題形式を利用して書いてみました。
なんか、このあたりの接点に、そもそもアニメのような「フィクション」を「観る」とはどういうことなのか。
そして、なぜ私達は、その「意味」を「分かる」ことができるのか、のヒントがありそうな気がしたからです。

なお、【解答例】は、救済固執説と二次創作説とを折衷したようなものになっています。
これが唯一の正しい解答(right answer)だと言いたいわけではありません。
しかし、「解答は人それぞれである」という相対主義を唱えたいわけでもありません。
作者の意図に関わらず、作品の登場人物には必ず固有の行動原理があり、その行為をなした理由が「なければならない」。
少なくとも、そう仮定して解釈すべきである、いや、現に私達はそうしている、というのがこの記事の隠れた論旨なのです。

長文を読んでくださって、ありがとうございました。


(注記)
登場人物の台詞は、表記・言い回しを含めて、一字一句同じではないかもしれません。
覚えきれませんでした。