【ネタバレ】劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

【対象作品】
題名:劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
制作:シャフト
年代:2013年

以下、上記作品のネタバレがあります。
ご注意ください。


【あらすじ】
迷探偵ほむらの冴えわたる物理。
ブレない女。
キュゥべえが余計なことしたせい。


【感想】
TVシリーズがきれいにまとまっていたので、たしかに蛇足感はあります。
しかし、[新編]として、これはこれでいいかなと思えてきました。
旧約聖書新約聖書との連続性・不連続性みたいな感じで。

前半は、一見恥ずかしい「ピュエラ・マギ・ホーリークインテット」や「魔法少女のお茶会」は、個人的には1周回ってアリでした。
逆に、一見かっこいいガン=カタ・アクションは、観ていてちょっとだけ恥ずかしくなりました。
後半は、「まどか with 元魔女連合ズ feat.魔法少女ズ」によるほむらを救うための総力戦、という展開が熱かったです。

では、面白いのかというと、見せ場はいくつかあるものの、普通に観ているぶんにはそれほど面白いとは思えません。
物語は一応、理詰めで展開されていきます(わりと台詞で説明してしまう)。
だから、理屈は分かる。
でも、面白くない。
むしろ、理詰めだからこそ、面白くない。
逆に、理詰めの部分を手掛かりにすれば、考察が好きな人には面白いかもしれません。
そして、私はいわゆる考察厨なので、まあまあ面白いと思えました。


【解釈・考察】
私が生きているこの世界は、果たして夢か現実か(夢の懐疑)。
夢ではないとしても、この記憶は虚偽か真実か(時間の懐疑)。
そこに犯人(たとえば超越者)はいるのか否か(実存の懐疑)。

普通に日常を送るうえでは、これらのことはまったく問題になりません。
にもかかわらず、ひょっとしたらと思わせるような作品がしばしば現われます。
この[新編]も、そういう作品の系譜に連なる一つだといえるでしょう。

その中で、強いてこの作品の特色を挙げるとすれば、超常的な存在が具体的な人格をもって介入してくることの薄気味悪さだと思います。
すなわち、暁美ほむらは超常的な存在のくせに、概念になった鹿目まどかと違って、具体性がありすぎるのです。
つまり、とっくに人外のくせに、その姿形、立ち居振る舞い、目的とするところ(「呪いよりもおぞましい」愛)が、あまりに「人間まがい」で、なんだか気持ちが悪いのです( なお、ほむらが「悪魔」だというのは、夢の懐疑における「デカルトの悪魔」という意味もかかっていると解釈することもできます。ただし、状況としては、夢の懐疑の時間版であるラッセルの世界5分前仮説に近い?)。

仮に、私が生きているこの現実世界に神や悪魔がいたとしても、ほむらのような一途で繊細な孤高の馬鹿娘はまっぴらごめんです。
単に概念的なデカルトの悪魔であることを超えて、いまさら普通の悪魔気取りで「悪魔だもの。悪さもするさ」とニヒルに開き直って私の日常に介入してくる様を想像すると、ゾッとします。

しかし、よく考えてみるとこの状況は、ほむらがキュゥべえに取って代わっただけだともいえます。
いや、むしろ、改変後の「この宇宙」を維持し、「このまどか」を守るためならば、ほむらはキュゥべえを「他の星」、さらに「他の宇宙」に放つのではないでしょうか。
さらにいえば、、「TVシリーズの宇宙」(または「[前編][後編]の宇宙」)に存在する地球にキュゥべえを送りこみ、魔法少女と魔女を生み出し、エネルギーを回収させた超文明の主というのは、実は他ならぬほむらだった、というのはどうでしょうか。
そして、「すべての宇宙」を上書きする形でn番目の「神まどか」が生まれ、「悪魔ほむら」が生まれ……以下繰り返し。
もしそうだとしたら、言葉の本当の意味で救いようのない話ですけど。
もちろんこれは、「ぼくがかんがえたちょーつおいぞくへん」にすぎません。

ところで、実は上述の懐疑には、解答をどちらかに絞る究極的な決め手はありません。
論理的にあり得ないのです。
なぜなら、決め手そのものが夢の産物かもしれず、虚偽かもしれず、超越者の上にさらに超々越者がいるかもしれないからです。
そして、上述した通り、私達の日常はそれでなんの不自由もないのです。


(注記)
なお、ほむらが超文明の主かもしれないという考えは、以前、「岡田斗司夫の「まどか☆マギカ劇場版」を金払って観たから言いたいこと言うよ!」(http://www.nicovideo.jp/watch/1351085005)において岡田さんが述べられた超文明の話を、自分なりに延長してあれこれ考えた結果、得られたものです。
岡田さんご本人には否定されるかもしれません。